[#表紙(img/表紙1.jpg)] 新・人間の証明(上) 森村誠一 目 次  ポップコーンの死  解体されたレモン  忌避された要素  同期の告別  寂寥《せきりよう》の谷、絶望の岸  夢の側面  老弟の純愛  終生口留金  悪魔のすり替え  ワルプルギスの宴  怨嗟《えんさ》の蠕動《ぜんどう》  完成せざる時効  悪魔の金蔓《かねづる》  すり替えの同行者 [#改ページ]   ポップコーンの死      1  帆足《ほたり》忠介は、その客が乗り込んで来たとき、不吉な予感が走った。服装もまともで、言葉遣いも尋常であり、敬遠すべき要素は、一見どこにもなかったのであるが、職業的なカンとでも言おうか。  その客を拾ったのは、東横線、「都立大学《とりつだいがく》」付近の目黒通りであった。歩道の暗がりに一人ひっそり佇《たたず》んでいて、ひかえめに手を上げた。五月末の時刻はちょうど午後十一時近くである。ドアを開くと、一番町にあるホテルの名前を告げた。一番町からなんとか銀座の方角へ回れば、ちょうど同地域のバーやクラブの看板時にぶつかる。銀座の客は長距離《ロング》が出やすい。  タクシー仲間で「一東二中《いつとんにちゆん》」と称《よ》ぶ東名高速および東海道筋と、中央高速経由の八王子《はちおうじ》方面の上客ベスト2にあたれば、今日のノルマは軽く達成できる。帆足は方角としては悪くないと咄嗟《とつさ》に判断したのである。  外気と共に乗り込んで来た客をバックミラーでそれとなく観察する。客に悟られないように観察するのが、練達のタクシードライバーである。  年齢は六十前後の老婦人で、黒っぽいワンピースをまとっているのが喪服のように見える。  服の暗さが予感を引き出したのかもしれない。顔は本人が意識してミラーから死角の位置においているのかよく見えない。行先を告げると、黙りこくって窓外を見ている。  あまり饒舌《じようぜつ》な客にも辟易《へきえき》するが、寡黙《かもく》すぎる客も無気味である。特に夜間の客に、背後で石のように黙っていられると、次第に圧迫感を覚えてくる。その圧迫をはね返すために、 「サンライズホテルにお泊りですか」  帆足は、客の告げたホテルの名を反復して、話しかけた。 「はい」  だが客は、それだけ答えて、話がいっこうに進展しない。 「あの辺《あた》りは、都心にしては、静かな所ですね」  帆足の誘導にも客はうなずいただけである。  帆足は話の継ぎ穂を失った。車は目黒通りから桜田通りへ入った。都心方向へ向かう車は空車が多く、都心から来る車はすべて実車である。 「サンライズホテルのある辺りは、戦時中米軍が原子爆弾を東京へ落とす場合の爆心地にしていたということですよ」  あまりにも手応《てごた》えのない客に、帆足は少しショッキングなことを言った。これでたいていの客はなんらかの反応を示すはずである。だが客は相変らず、石のように沈黙したままシートに凭《もた》れている。  帆足は、話しかけるのをあきらめた。おそらく彼女は疲れているのだろう。それとも自分独りの殻に閉じこもっていたいのかもしれない。  タクシーには、まことにさまざまな客が乗って来る。金さえ出せばだれでも乗せる無節操ではあるが、いちおう客を選ぶ権利は、最低限に保留してある。  走る密室の中で多種多様の人生と関わりをもつのであるが、それはごく浅い一触の関わりでしかない。固定客以外は同じ客を二度乗せることは、まずあり得ない。その点でみな「行きずりの人」である。  そんな乗客が残していった人生の断片を、ある「タクシードライバー」は「食べ残しのポップコーンのようだ」と形容した。つまり「どれも同じような味で、特にちがいはない。大事にしまっておく気にもなれないが、捨ててしまうのもちょっともったいない」という意味なのである。  帆足は名言だとおもったが、それは客が残していった人生の断片が、どれもこれも小さすぎて、それぞれの人生がもっているにちがいない悲しみや喜びを深く噛《か》みしめ、その行末を占うには足りないからではなかろうか。精々、乗客席に残していった彼らのため息や体臭を食べ残しのポップコーンのようにかき集めてタクシー運転手は、あてどなく「客のまにまに」流されているだけなのである。  いずれにしてもタクシー運転手が、乗客の人生に深い関わりをもつことはない。客のほうも運転手を人間とは見ていない節がある。運転手はタクシーの部分品にすぎないのである。だから、極秘事項に属するようなことを運転手の耳も憚《はばか》らずしゃべったり、車内でアベックが傍若無人な痴戯を繰り広げたりする。  そんなとき帆足は、その乗客を運ぶことにどんな社会的な意義があるのかと、そぞろ虚《むな》しくなるのである。だがタクシー運転手が社会的意義などを深刻に考えてはいけなかった。要するに、乗客は食べ残しのポップコーンなのである。それをかき集めながら東京の人の海を漂流する。人が無数に集まってできた巨大な街でありながら、一人一人がこれほど寂しい街があろうか。  ともあれ、タクシー運転手ほど、人生とは考えたり、語ったりするものではなく、まず動く(走る)ものであることを、体で知っている人種はないであろう。  無反応な客もポップコーンの一つである。帆足の車は、桜田門《さくらだもん》から桜田|濠《ぼり》に沿って左折した。銀座方面から来る車と合流する。そのとき後部シートで乗客がかすかなうめき声をあげたように感じた。 「お客さん、気分でも悪いのですか」  帆足は問いかけたが、相変らず返事はない。 「気分が悪かったら窓を開けてくださいよ」  彼は吐かれでもしたら面倒だとおもった。人間の嘔吐物《おうとぶつ》を狭い車内に撒《ま》き散らされると、後始末をしても強烈な臭いが染みついて、後の客を乗せられなくなる。  帆足の言葉が聞こえたのか、聞こえないのか、乗客のうめき声は次第に強くなってくるようである。 「お客さん、お客さん、どうしました」  帆足は運転中にも憚らず振り向いた。苦悶《くもん》は急激に始まった様子である。背を曲げて、シートの床に落ちかけるようにして苦しんでいる。口から血泡を吹いている。 「こりゃあ大変だ」  帆足は愕然《がくぜん》として道端へ車を寄せると、ブレーキを踏んだ。運転席から下りて、後部シートのドアを開けると、すでに乗客は虫の息であった。帆足は乗客が深刻な状態に陥っていることを悟った。  帆足は狼狽《ろうばい》した。一瞬どうすべきか途方に暮れた。かつぎ込むべき病院も咄嗟におもい浮かばない。だが乗客の様子は、逡巡《しゆんじゆん》を許さないほど切迫していた。  救いを呼びたくとも、生憎《あいにく》近くに電話も見当たらない、通行人もいない。道路に激流のように車の群が走っているだけである。帆足もいつもその群の中の一点として走っているくせに、いまほど彼らの機械的な非情さをおもい知らされたことはない。それぞれの車内に確実に人間を乗せていながら、彼らは走る機械になりきって、それぞれの目的地へ脇目《わきめ》も振らず急いでいた。道端に停まったタクシーの中で一人の人間が死にかけていようと、彼らにはなんの関わりもなかった。関わりをもつことを拒否するように、傍《かたわ》らを過ぎるときこれ見よがしにスピードを上げる車もある。乗客の苦悶はますます激しくなっている。目は朦朧《もうろう》としており、意識はすでに混濁しているようである。  帆足は窮してすぐ近くに麹町《こうじまち》警察署があるのをおもい出した。警察へ駆け込めばなんとかしてくれるだろう。日頃はタクシーと犬猿の仲のような警察であるがためらってはいられなかった。  帆足は運転席に戻ると、荒っぽく発進した。      2  いきなり瀕死《ひんし》の人間をかつぎ込まれた麹町署は、直ちに救急車の出場を要請した。だが、救急車が到着するとほとんど同時に乗客は息を引き取った。救急車は死体を運ばない。せっかく駆けつけて来た救急車を虚しく帰して、麹町署は「転がり込んできた死体」に対し、早速、自己の職務を遂行し始めた。  まず死体が発見され、発見者からの訴えによって活動を始めるのが、おおかたの事件の発端であるが、死体(運び込まれたときはわずかに生きていた)のほうが警察に運び込まれて来たケースは珍しい。この場合�現場�は警察署ということになるが、もし死因に犯罪性があれば、犯罪捜査史上においてもきわめて珍しいケースとなるであろう。  死者は、タクシー車内で苦しみ始めた模様である。外表観察の第一所見では、なにかの毒物を摂取した状況が濃厚であった。毒物の摂取状況いかんによって、死体は一挙に犯罪性を帯び捜査の対象になる。  まず急がれるのは死因の鑑定である。それによってなんらかの毒物が証明されれば、その毒物を、どこでどのように摂取したかが問題になる。  運転手の証言によれば、乗車後しばらく経《た》って苦しみだしたということであるから、乗車前に摂取した毒物が作用してきたとも、また即効性の毒物を車に乗ってから服《の》んだとも考えられる。  当然、帆足にも詳しく事情が聴かれたが、彼にも乗客が毒物を摂取したのが乗車前か後かはっきりしたことは答えられなかった。  死者は六十前後の老婦人で、褐色のレザー製のハンドバッグを携行していた。身許確認のためにハンドバッグの中身を調べると、約五万円の現金、小物類と共に中華人民共和国政府発給の公用旅券が出てきた。旅券に貼付《てんぷ》された写真は、本人のものであり、名前は楊君里《ヨウクンリ》、五十八歳、中華人民共和国北京市人民政府外事弁公室|翻訳《フアンイー》(通訳)と身分が判明した。  合わせて、千代田区一番町サンライズホテル724号室の宿泊カードがあった。中国政府の通訳が公用来日中に変死したとなると穏やかではない。署内に緊張がみなぎった。  死体は検視の後、解剖に付せられることになった。一方、中国大使館に連絡がいき、死者が宿泊していたとみられるサンライズホテルにも係官が赴いた。  同ホテルは麹町署とちょうど背中合わせの位置にあたる。途方に暮れたタクシー運転手が警察へ車を横づけにしたのも無理からぬとおもわれるような関係位置にある。  客室数・二百室ほどの中型ホテルであるが、客層は、中国人を主体とした東南アジア系の人間が多いということである。ホテルへ赴いたのは麹町署捜査係の棟居弘一良《むねすえこういちろう》である。  まだ死因が曖昧《あいまい》な段階なので、調べのほうも事故、自殺、犯罪の三面の構えで進められている。  ホテルを当たった結果、死んだ楊君里は、農林省および「日中善隣協会」の共同招待で来日中の「中国農業生産合作社日本農業視察団」の女性|翻訳《フアンイー》(通訳)と判明した。  一行は農業技術者や農学者を中心とした十二名のパーティで、京都、奈良、長野、秋田、福島、宮城などの各地を五月十五日から約二週間にわたって訪問、明日帰国の予定になっていた。昨夜すなわち五月三十日午後九時ごろ楊は団長の喩《ユー》|※[#「金/(金+金)」、unicode946b]培《キンバイ》や、ホテルのフロントに都内の知合いを訪ねて行くと言って出かけたそうである。  楊君里は、北京の日本語学校の教師を多年つとめてから通訳になったのであるが、来日したのは、今回が初めてであった。黒竜江省|哈爾浜《ハルピン》市の出身で、戦時中日本人と結婚して一児をもうけたが、終戦によって夫と子供は日本へ帰ってしまったということである。 「それでは今回の来日で、昔の主人と娘さんに会ったのですか」  棟居は、喩団長に質《たず》ねた。 「住所が来日直前にようやくわかったとかで、とても楽しみにしておりました」  多少、日本語を話す喩は、たどたどしく答えた。 「それでは楊さんが会いに行ったという都内の知合いは、その元のご主人と娘さんではないのですか」 「その点ははっきり言いませんでしたが、多分そうではないかとおもいます。本人もあまり詳しく話したがらなかったものですから。なにしろ別れてから三十六年も経っておりますし、ご主人も娘さんも当然日本でべつの家庭をもっているでしょう。会うにしてもあまりおおっぴらには会えなかったんじゃないかとおもいます」  喩の言葉の歯切れが悪くなった。 「なるほど、それであなたは楊さんが会いに行ったという都内の知合いの住所をご存じですか」 「いいえ知りません。明日出発なので聞こうかとおもったのですが、本人が言いたくなさそうな様子でしたので。あまり遅くならないうちに帰って来るように言っただけです。それに知合いの自宅で会うとは限りませんので」  団長は、楊の行先についてはなにも知らなかった。彼は通訳の不慮の死に狼狽していた。棟居は喩の了解を得て、楊君里の部屋を見せてもらうことにした。彼女の遺品の中に彼女の当夜の行先を示唆あるいは暗示するものがあるかもしれないとおもった。  楊の部屋724号室は、標準サイズのシングルルームである。五、六坪の部屋にベッドとユニットのバス・トイレット、ワードローブ、テーブルと椅子《いす》一脚、なんの変哲もないホテルの部屋であった。ワードローブの内部には部屋着用のワンピースが一着|吊《つる》されているだけである。  明日の出発に備えて荷物はスーツケースとトランク各一個の中にきちんと整理されていた。手がかりがあるとすれば、そのスーツケースとトランクの中にある可能性が大きい。喩団長は、本人が死亡し、本国に身寄りがないので、荷物を遺留物として任意に提出してくれた。棟居は荷物を領置してひとまず引揚げることにした。  解剖の結果が明らかにされるまでは、捜査の方針も確立されず、聞込みも及び腰であった。      3  乗客に車内で急死された帆足忠介は、さんざんな目にあった。銀座へ回って「一発ロング」を狙《ねら》うどころか、警察で延々と事情を聴かれたうえに、微に入り細を穿《うが》った調書を取られて、ようやく解放されたのは、暁《あ》け方《がた》近くである。  会社は水揚げ第一主義である。どこで何をしようと、要するに稼いで帰ればよい。一日十四時間以上走り、三万六千四百円以上水揚げして帰らないと、賃金カットされる。タコメーターに記録されるので、実際に走った「ハンドル時間」はごまかせない。  昼は渋滞で水揚げが上がらないので、夜の十時以降走りまくって埋め合わせる。そのかき入れ時を「車内急死客」によってふいにされたので、その夜の水揚げは惨憺《さんたん》たるものになってしまった。  だが会社は冷酷であり、言い訳はいっさい認めない。会社に言わせればそんな客を乗せたのが悪いということになる。  たしかにその通りで、あの客が乗り込んで来たときに走った予感を信じて、「お断わり」しておれば、こんなひどい水揚げにならずにすんだのである。車庫へ帰って来たのが四時すぎで、それから洗車、売上金の計算、納金をすますと、夜は白々と明け離れていた。  特に今回は縁起《ゲン》が悪いので、洗車と車内の清掃を念入りに行なった。嘔吐物の量は割合に少なかったが、異臭がこびりついている。厄落としの意味をこめて、常よりも念入りに隅々まで清掃した。  後部シートと背凭《せもた》れの間に目を向けた帆足は、そこに一個のレモンがはさまっているのを見つけた。昨日は出庫してから二十組ぐらいの客を乗せている。出庫するときは、そんな�異物�は落ちていなかったから、二十組の客のだれかが落としていったものであろう。  だがレモンはかなり目立つ。出庫後間もなく残されたものであれば、前の客が気がついてもよいはずであった。すると遅く乗った客が置き去った率が高くなる。最も率が高いのは�最後の乗客�つまり、車内急死の客である。帆足がレモンをつまんで考え込んでいると、やはり暴走族にからまれて遅くなったという矢崎が覗《のぞ》き込んだ。 「おや、あんたもレモンを積んでいるのかい」 「レモンなんかを積んでおらんよ。客が落としていったんだ。ところで、あんたはなんでレモンなんか積んでいるのだ」 「こいつは眠けざましにいいのさ。居眠りしそうになったとき皮の上からガリッと噛むんだ。眠けなんかいっぺんに吹っ飛んじゃうよ。あんたもやってみたらどうかね」  レモンにそんな効用があったとは気がつかなかった。たしかに酸味の塊りのようなレモンをまるごと齧《かじ》ったら、多少の眠けなど吹き飛ぶであろう。  タクシーは一台に二人の運転手が付く。帆足の裏番の運転手がそのレモンを積んだ可能性も考えられるが、それにしては客席に転がっていたのがおかしい。  レモン一個、だれが残していったところで大したことではあるまい。——帆足はレモンを捨てようとして、その手をふと宙に停《と》めた。  警察が、乗客の死因に犯罪性を疑っていたことをおもいだしたのである。もしあの乗客の死に犯罪がからんでいるとすれば、このレモンは重大な証拠になるのではないのか。  犯罪があろうとなかろうと、おれには関係ない。早く家へ帰り、熱い風呂へ入ってゆっくりと休みたい。せっかく長く苦しい勤務から解放されたのに、またぞろこちらからレモンなどをもってのこのこ出かけて行こうものなら、貴重なアケ番の時間を、あの執拗《しつよう》な事情聴取と調書作成で奪われてしまうのは目に見えている。  もうおれは十分、協力したのだ。おれにも休む権利がある——と強いて自分を納得させようとしたが、レモンの目に沁《し》みる黄色が、「自分は食べ残しのポップコーンではない。おまえの車の中で人生を終えた人間の形見なのだ」と訴えているように見えた。  帆足は、アケ番を犠牲にする覚悟をした。たしかに自分の車内で死んだ乗客の人生は、ポップコーンではなかった。それは帆足に初めて重大な関わりをもった乗客であった。帆足はそこになにかの因縁を感じたのである。 [#この行2字下げ]〈作者註〉文中、「人生は食べ残しのポップコーン」の引用は、『深夜のタクシー・ドライバー』岩城義孝氏著=晩聲社に拠ります。 [#改ページ]   解体されたレモン      1  タクシーの運転手からレモンを届け出られたとき、棟居は一瞬しまったとおもった。それは本来警察が発見すべき筋合のものであった。死因の不明瞭《ふめいりよう》な死体を運んできた車であるから、真っ先に検索の対象にすべきである。それをなんの観察も検査も加えずに帰らせてしまったのであるから怠慢の誹《そし》りは免れない。  だが、楊君里が運び込まれたときは、虫の息ながら生きていたし、むしろ食中毒を疑っていた。警察のほうでも、いきなりかつぎ込まれた外国人に死なれて、うろたえていたことは否めない。  ともあれ、新たに出現した形のレモンに、警察は首をひねった。これが死者の遺品であったとしても、なぜそんなものを携行していたのかわからない。「レモン一個」とは奇妙な持物であった。  一方、翌日には監察医による解剖の結果が出た。それによると死因は、有機|燐《りん》化合物による急性中毒、胃および小腸の内容物からパラチオンの化学的成分を証明した。  死体の血液型はAB型、生前に情交の痕跡《こんせき》なし。なお胃内は空虚でパラチオンを含んだ混濁液が少量残留している。——という素気ないものである。  監察医も、解剖によって、自他殺の判定がつかなかったのである。パラチオンは、本来第二次大戦においてナチスが開発した「Gガス」と称《よ》ばれる毒ガスを殺虫剤に転用したものである。日本では主としてニカメイチュウの防除に用いられている。その毒性は凄《すさ》まじく、経口摂取だけでなく、皮膚粘膜を透しての侵透性があり、どんな小さな傷口からも体内に吸収される。致死量は経口〇・六g—〇・八g、経皮で約五gとされている。摂取後三十分から、数時間で死に至るが、早いときは青酸中毒のように十分前後で急死することもあるそうである。  これは、楊君里の毒物摂取時間を微妙にする。彼女がタクシーに乗り込んでから苦悶を始めるまでに十五分—二十分であったと運転手は証言している。これは後にタコメーターチャート紙を提出してもらい、午後十一時六分に楊を乗車させ、十一時四十三分に警察へ運び込んだことが確認された。  都立大学から麹町署まで渋滞のない時間帯に三十七分要しているが、これは途中でいったん停車して楊の様子を見たためである。  すると、彼女が毒物を服《の》んだのは、乗車前かそれとも後だったのか判然としない。毒物の作用発現は、急速である。乗車前に摂取していれば、すでに苦悶は始まっているはずであるが、その点に関して運転手は、「いやな予感がした」と言っただけで、印象が曖昧である。  また乗車後毒物を入れた飲み物を飲んだとすれば、ボトルが車内に残っているはずであるという意見が出た。  だがボトルは走行中捨てることもできる。ここに麹町署に�準捜査本部�が設けられて、自他殺両面の体制で捜査が開始されることになった。第一回の捜査会議においてまず問題にされたのは、自、他殺いずれにしても、その動機である。  本件の死者は中国からの旅行者であり、滞日中に死亡したので、死者をめぐる人間関係の捜査ができない、唯一の聞込み対象であった旅行団は帰国してしまった。 「本人の会いに行ったという�都内の知合い�の割出しが先決である」という意見が出された。その意見を出した者は、死の動機までも次のように敷衍《ふえん》して推測した。 「本人は、戦時中日本人と結婚していたそうだ。彼女はこの度の来日を機会に昔の夫と、彼との間にもうけた子供に会うのを楽しみにしていたそうだ。都内の知合いとはその夫か子供にちがいない。だが戦後三十六年してから突然現われた昔の妻に夫は迷惑したであろうし、子供はいきなり母だと名乗られても信じられなかっただろう。  夫や子供が、べつの家庭をもっていることは、当然考えられる。夢にまで見た日本で夫や子供から冷たくされて悲観したのではあるまいか」 「それでは自殺か?」 「自殺の可能性が大きいとおもう。しかし、他殺の線を完全に消すわけにもいかない。楊君里が現われて大いに迷惑した人物が、毒物を服ませたかもしれない」 「昔の妻や、中国の母が突然現われても殺す必要はないとおもう。戦時中中国にいた日本人が現地の女性と結婚をして子供をもうけても、少しも不名誉なことではあるまい。仮に夫が生きていたとしても、もういい年になっているだろう。昔の中国人妻が現われたところで家庭を破壊されるというような年齢ではあるまい」 「当人同士でなければわからない切実な事情があったのかもしれない」  それはいくら臆測《おくそく》をたくましくしてもわからないことである。唯一の資料たる楊君里の荷物が検査された。着替えの衣類数点、中国語の日本案内、日中辞典、土産として買ったらしいラジオカセットなどがあるだけで、特に手がかりになるようなものは見当たらなかった。  その日の捜査会議によって、当面、自他殺二面の構えで捜査に臨むことにして、次の諸項目が捜査方針として決定された。  一、タクシーに乗った都立大付近の聞込み捜査。  二、サンライズホテルの聞込み徹底。  三、日本国内における訪問先の調査。  四、招待者、農林省、日中善隣協会の聞込み。  五、毒物の入手先調査。  六、外交ルートを通しての楊君里の人間関係の調査。死者の前夫の割出し。      2  棟居は、初めに手がけた関係で、まず第二班のホテルの聞込みを担当することになった。彼は以前に専従した東京ロイヤルホテルでの黒人青年刺殺事件をいやでもおもいださないわけにはいかなかった。  あの事件の犯人は、黒人の母親であった。戦争の落とし子のような黒人が、母親を訪ねてはるばるアメリカから渡航して来たところ、成功した母親に拒まれて刺された。  今回の事件も、なにやらあの事件と似たようなにおいがするのである。日本人を夫にもった中国人女性が、三十数年して、生き別れになった夫と子供を訪ねてやって来た。もし彼女が夢にまで見た日本で、夫と子供から冷たく拒否されたとしたら。  彼女の死はマスコミに報道されている。夫と子供の耳目に触れていないはずはない。それにもかかわらず、なにも言ってこないところに彼らの冷たい拒絶があるような気がした。  聞けば死んだ楊君里には、中国にも身寄りがなかったという。すると日本にいる夫と子が彼女の唯一の身寄りだったことになる。その身寄りにも看取られることなく、行きずりのタクシーの中で苦悶し、警察署の中で絶命した。なんとも哀れな死にざまではないか。  棟居は、哀れだとおもった。自、他殺いずれにしても、必ず真相を突き止めてやろうと心に定めた。他殺ならば必ず犯人を挙げ、自殺にしてもその真相を見届けてやらないかぎり、死者の魂は浮かばれないだろう。  あるいは、そっとしておいてやったほうがいい場合もあるかもしれない。だがせめて日本にいるという身寄りの手に彼女の亡骸《なきがら》を託してやりたい。このままでは外人墓地の無縁仏になってしまう。  日本へ来るのをひどく楽しみにしていたというから、彼女には日本で死ぬつもりは毛頭なかったにちがいない。夫や子供がいるということは、無縁仏になることを拒否していることでもある。  ——彼女を無縁仏にしてはならない。——棟居は、自分に言い聞かせた。  棟居の当面の気がかりは、タクシー運転手の届けてくれた「レモン」である。捜査会議ではあまり問題にされなかったが、あのレモンに事件を解く重大な鍵《かぎ》が隠されているような気がしてならない。  本部の大勢としてはレモンを他の乗客の遺留物とみている。また本人のものとしても、さして重大な資料とは考えていないようである。女性がレモンをもっていたところで不思議はないという見方が主流なのである。だがレモン一個とはかなり奇妙な持物である。  ともあれ、一個のレモンが棟居の心の負担になっていた。レモンに何の意味があるのか?  サンライズホテルにおける再聞込みは、訪問者や電話の有無を中心に進められた。  旅行団は、五月十五日来日、二日間同ホテルに宿泊した後、日本各地を二週間にわたって回った後、ふたたび五月三十日同ホテルへ戻って来た。そして同夜楊君里は死んだのである。  したがって、訪問者があったとすれば、最初《フアースト》投宿《コール》した二日間と、二度目《セカンドコール》の五月三十日ということになる。  だがホテル側は、農林省と日中善隣協会の世話人が来ただけで、その他に特別な訪問者はなかったと答えた。  電話は発信が何回かあったが、メーターに度数が表示されただけで、相手のナンバーはわからないという。受信についてはまったく追及のしようがない。  肝腎《かんじん》の旅行団のメンバーが全員帰国してしまっているので、聞込みは空転するばかりであった。棟居が落胆して帰りかけると、顔なじみになったフロントがなにかをおもいだした表情で声をかけた。 「いまちょっとおもいだしたことがあるのですが、お役に立つかどうか」  フロント係は、話したものかどうか迷っている様子である。 「どんなことでもけっこうですよ」  棟居に励まされて、 「あのお客様はファーストコールの際、お部屋替えを希望されたのです」 「部屋替え?」 「私が、担当したのでよく憶《おぼ》えているのです。最初に731号室を|割り振り《アサイン》したところ、べつの部屋にチェンジするように要求《リクエスト》されてきたのです」 「部屋が気に入らなかったのですか」 「私もお部屋が狭すぎるのかとおもったのですが、タイプは同じでよいからべつの部屋に替えて欲しいとおっしゃるのです」 「すると部屋の位置でも気に入らなかったのかな」 「ルームチェンジを希望されるお客様は、たいていお部屋の模様か位置がお気に召さない場合が多いのですが、楊さんにはエレベーターにも適当の距離をもった、ホテルとしては静かな良い位置のお部屋を差し上げたのです」 「すると何が気に入らなかったのですか」 「もっと上の方の階層《フロア》をお望みかとおもったのですが、同じフロアでよろしいとおっしゃるので、724号室にチェンジいたしましたが、私にもなぜ、チェンジを希望されたのか、よくわかりません」  それ故にフロント係の印象に残っていたのであろう。 「こんなことお役に立たないとおもいますが」  新しい情報を頭の中で測っていた棟居に、フロント係は言った。 「いや、大変参考になりましたよ。またなにかお気づきのことがありましたら、お知らせください」  棟居は礼を言ってホテルを出た。  他のチームにも目ぼしい収穫はなかった。  旅行団の国内の主たる訪問先は、農林省付属の農業技術研究所や農業総合研究所、京都、奈良の史跡、長野県の農村、松本市の日本民俗資料館、秋田市の農薬・肥料メーカー工場、福島県の農村、仙台市の農機具メーカーの工場などである。  その間、各関係者と多数会っているが、いずれもその訪問において接触した人たちであり、既成の関係はない。旅行の間ずっと付き添った交通公社の添乗員および招待者である農林省と善隣協会の担当者にも聞いたが、楊君里は、旅行の間終始元気で、死を予告するような暗影は一片も見えなかったそうである。  都立大付近の聞込みに当たったチームにも、一人の目撃者、一片の情報も得られなかった。 「この地区は柿《かき》の木坂《きざか》、八雲《やくも》、中根《なかね》、自由《じゆう》が丘《おか》などの高級住宅街と中流の住宅街が入り混った地域で、駅付近を除いては夜間は人通りも少なく閑静な所です。夜十一時ともなれば、目撃者の発見は困難になります。彼女が車を拾った地点の近くに訪問した家があるなら、目撃者がいなくとも不思議はありません」  同地域を当たったチームは報告した。  毒物の入手先については、自殺説を一歩推し進めるような聞込みがあった。パラチオンは、最近その薬害がクローズアップされて、使用が抑制されるようになったものの、ニカメイチュウの最も有効な防除薬として一般農家や果樹園などではいまなお使用している。  このパラチオン試薬が、秋田市の果樹試験場虫害研究部を訪問した際に一行に参考資料として渡された事実が判明したのである。それは通訳の楊君里にも渡されたということであった。メーカー側は楊も農事関係者とみて、人数分だけ用意したらしい。またその意味では彼女も農事関係者と言えなくもなかった。  彼女の体内から証明された毒物の化学的成分は、まさに農薬メーカーの試薬と一致したのである。  だが自殺となれば、なぜ彼女は乗車前後に慌しく毒を呷《あお》ったかという疑問が出された。ホテルへ帰館してから遺書を書いたり、後片づけをしたりしてゆっくり死ねばよいではないかという意見である。  それに対して死をおもい立って衝動的に毒を服んでもおかしくないという反論が出た。強いショックを心にうけて、前後の見境いもなく死を図るのは、よくあるケースだというわけである。  どちらにしても、楊の自殺説の上に立っての議論であった、自殺の気配濃厚となると、捜査員の熱がいっぺんに冷える。捜査員とは、犯罪を捜査するプロパーである。捜査は犯罪に関する資料を蒐《あつ》め、犯人を確定する手続きであるから、自殺と確定すれば、捜査は中止される。  外交ルートによる資料の取得は時間がかかるし、仮に中国側の協力が得られたとしても一人暮らしの老|寡婦《かふ》についてどれほどの資料を入手できるかはなはだおぼつかない。  早くも本部の空気はダレかけていた。だいたい、この本部そのものが曖昧である。まだ�準�であって、殺人事件の捜査本部として開設されたわけではない。  捜査方針も「自・他殺両面の構え」などという中途半端なもので、腰が坐っていない。本部の中には自殺として事件を処理したがっているムードが拡がりつつあった。自殺にしてしまえば検挙率にも影響しない。外国人の一人や二人殺されようと、自殺しようと大したちがいはないという乱暴な考え方である。そういう考え方を第一線に立って防止すべき立場にありながら、捜査が膠着《こうちやく》したときには、安易さと妥協したがるのが人間の弱さであった。  棟居はべつの面から安易さとの妥協に歯止めをかけられていた。彼は楊君里が可哀想であった。捜査官に下手な同情は禁物であったが、異国の警察署で息を引き取った彼女を、自、他殺曖昧なまま、無縁塚に葬るのがなんとも哀れであった。彼の同情の底に黒人青年の死があることは否めない。楊君里とジョニー・ヘイワードの死が重ね焼きされて、行きずりの旅行者の死として見すごせない心緒《しんしよ》をつくっているのである。  だが心緒だけではどうにもならない。自殺に傾きかかる大勢を建て直す一片の資料もなかったのである。      3  このままでは本部は、なしくずしに解散の気配が濃くなった。  事件発生から約一か月後、一個の小包みが棟居の許に配達された。発送者の名前を見ると、「喩※[#「金/(金+金)」、unicode946b]培」とある。彼はその難しい文字の名前に記憶があった。楊君里が同行した中国旅行団の団長である。  早速|梱包《こんぽう》を開いてみると、一冊の中国語の本であった。書名に「日本当代短篇小説|選[#底本では「しんにゅう+先」]《せん》」とある。日本の小説を中国語に翻訳したものらしい。版元も中国の出版社である。本に手紙が添えてある。その文意の大要は次の通りである。  ——その後、楊君里さんの死の理由はわかりましたでしょうか。私も突然のことで驚いております。旅行中も楊さんはいつも陽気に振舞い、とても死を考えているようには見えませんでした。ところで帰国してから自分の荷物を調べてみますと、楊さんの本がまぎれ込んでいたのに気がつきました。旅行中、楊さんがもっていたのを、面白そうなので借りたまま、返すのを忘れていたのです。楊さんの身寄りはこちらにおりませんし、捜査のなにかの参考になればとおもって、お送りいたします。  こちらでお力添えできることがあれば、なんなりとお命じください。——  たどたどしい日本文であったが、意味は取れた。棟居は改めて、送られてきた本を見た。日本の本に比べると装幀《そうてい》も紙も印刷もかなり粗末である。紙は終戦直後に出回ったエログロ雑誌に使われた仙花紙《せんかし》である。  だが、内容は現代日本の錚々《そうそう》たる作家の短編を並べている。棟居は、楊君里がこの本をもっていた理由を漠然と考えてみた。  過去日本人の夫をもち、日本語の通訳をつとめていた彼女が、日本の小説を読んでいたとしても不思議はない。ましてこれは中国語訳のものであるから、あちらで自由に手に入ったであろう。  その本はB6判の七百頁近いかなり分厚いものである。中国には文庫本やペーパーバックスのような「軽い本」はないのであろうか。収録されている作品は二十八本、つまり二十八人の作家が顔を連ねている。各作品の初めに、それぞれの作者の顔写真と略歴が紹介されている。  漫然と頁を繰っていた棟居の指が途中で停まった。これらの作者の中のだれかが、楊君里の�知合い�ではなかったのかという考えが閃《ひらめ》いたのである。  三十六年前の夫の消息を楊はなんらかの方法で知ったはずである。その「方法」がこの本ではなかったのか。喩は来日直前に楊の夫と子供の住所がわかったと言っていた。楊は三十六年前に生き別れになった夫の消息をこの本のどこかに見出した。すると、「日本当代短篇小説選[#底本では「しんにゅう+先」]」の作者の一人が楊の前夫か。いや夫でないとしても、夫の消息を見出したのかもしれない。  棟居は、にわかに興味を点じられた目で作者の名前を見渡した。  楊君里の夫としては、六十歳前後の作家が最も可能性が大きいであろう。子供ということも考えられるが、一見して悟るには、顔写真が載っている夫のほうがより可能性が大きい。また中国にいた経歴のある作家は特にマークすべきである。  だが経歴もすべて中国語で書かれており、棟居にはわからない。紹介文から漏れているかもしれないし、作家本人がそれを隠している場合もあるので、ここに顔を連ねた作家は女性を除いてすべてマークすべきであろう。いや作品を介して間接に消息を得た場合を考えると、女性も除外できない。  棟居は、自分の着想を課長に話してみた。 「さあ、そいつはどうかな」  課長は初めから懐疑的であった。 「私は、それほど見捨てたものではないとおもいます。まずこの中から都立大付近に居住している作家を探してみます。作家本人の住居がなくとも、仕事場、行きつけの店、たまり場などがあってもよいとおもいます。そして彼に中国にいた経歴があれば、かなり有望だとおもいますが」 「いまのところ他になにもないから、ちょっと洗ってみるか」  課長が、消極的ながら興味を見せた。早速棟居は図書館へ行き、文芸年鑑やら文学事典やらを索《ひ》いて、二十八名の作家の�身上�を調べた。  その中からとりあえず四名の作家が浮かび上がった。  馬杉範之、五十八歳、目黒区柿の木坂二の二十×番地、ただし�中国体験�がない。  常法寺三郎、六十一歳、目黒区自由が丘二の三の×、戦時中、満鉄社員として中国体験あり。  波肇《なみはじめ》(本名古館豊明)、五十四歳、住居は川崎市多摩区|細山《ほそやま》にあるが、仕事場を目黒区八雲二丁目のマンションにおいている。戦時中陸軍の「少年見習技術員」として満州国に行っていた。  仙波信仰(本名信夫)、六十七歳、目黒区中根一の十×、戦時中、毎朝新聞の従軍記者として、湖北、当陽、宜昌、湖南作戦に従軍。  以上四名の中で最も中国体験が長いのは仙波信仰である。昭和十五年四月、第三十九師団に従って唐河平野包囲|殲滅《せんめつ》戦、漢水の敵前渡河、当陽、宜昌作戦、次いで第十一軍旭集団十数個兵団より成る三十余万の大軍勢に従《つ》いて湖南に進出するまでの昭和十九年四月に至る四年間にわたる四人の中で最長の中国体験を有する。また、楊君里がタクシーを拾った地点から最も近い所に住んでいる。歩いて精々一、二分の距離である。  仙波にとって中国体験は現在の地位と職業の基礎になっており、従軍の体験を作品化したものが、作家としてのデビュー作となった。だが終戦前に湖南から帰国しており、終戦によって別れたという楊の言葉と符合しない。  次にマークされるべきは常法寺三郎であるが、満鉄でどのような仕事をしていたのか、またその在職期間はどのくらいなのか不明である。  波肇こと、古館豊明は、楊の夫としては年下にすぎる。現在五十四歳ということは、終戦時に十八歳となる。十八歳では妻帯するに早すぎるであろう。だが当時二十二歳の楊と結婚できないことはない。陸軍の少年見習技術員というのもどういう�兵科�に属するのかはっきりしない。  馬杉範之は、柿の木坂に住居をもっているということだけで、いちおうリストに加えた。だが彼が中国体験を隠していれば、容疑はいっきょに濃縮される。  あとは、本人に各個当たる以外になかった。  棟居は、図書館での調べにいちおう満足した。二十八名の作家の中、四名も都立大の付近に住んでおり、三名も中国体験者がいたことを確かめたのは収穫であろう。  棟居は、四名に直接当たる前に、彼らの作品をいちおう読んでみようとおもった。「短篇小説選[#底本では「しんにゅう+先」]」に収録されている作品は、それぞれの作家の代表的短編であったとみえて、さしたる困難もなく図書館の蔵書の中に見つけだせた。  まず最もマークすべき仙波信仰の作品から読み始めた。これは「臆病《おくびよう》隊長」という戦記物である。中国での従軍体験をコミカルに書いた作品で、特に楊との関連は見つけられなかった。  次が、常法寺三郎の「六本木《ろつぽんぎ》の週末」である。六本木に蝟集《いしゆう》する男女の生態をルポルタージュ風に描いたものであるが、東京の最先端の風俗が、中国人の目に面白くうつったのであろうか。この作品にもなんの手がかりも見出せなかった。  次に、波肇の「深夜の出棺」である。これは生体解剖の話であるが、読んでいる間に胸が悪くなった。悪徳医師が、新鮮な内臓が欲しくてまだ息のある患者を解剖してしまう。患者の遺族に遺体を返すときは、別人の内臓を体内に入れておく。遺族は、患者が医学の研究に貢献したと信じて遺体をもっていくというストーリーであるが、作者は医学の心得があるらしく、解剖シーンの描写などは真に迫っている。  棟居は文末に至って愕然《がくぜん》とした。  ——生体を裂きしメスにて檸檬《レモン》割る—— 「深夜の出棺」はその俳句によって終っていた。俳句の巧拙は、棟居にはわからない。だが、そこに「檸檬《レモン》」が出てきた。  この句だけでは、なぜレモンを割ったのかわからない。だが生体解剖した血脂にまみれたメスでレモンを割っている凄惨《せいさん》な光景は、目に浮かぶ。  彼の作品にレモンが登場したのは、偶然であろうか。レモン、中国体験、都立大付近の居住者、これだけの要素を備えたのは、彼だけである。  棟居は、彼を第一にマークすることにした。同人の経歴をさらに詳しく調べてみると、岩手県|花巻《はなまき》市出身、国民学校高等科を卒業後、陸軍少年見習技術員となって満州国赴任、終戦と同時に引揚、運転手、私立探偵、保険の外務員、医療器具販売員、業界新聞の記者など十数種の職業を転々とした後、昭和三十一年上半期にA賞受賞、以後文筆生活に入る。家庭は、昭和二十八年に結婚した妻美知代との間に、二十五歳の長男(商社勤務)と二十一歳の長女(女子大三年)の二人がいる。  社会問題に関心が深く、物質文明の悪魔的な爛熟《らんじゆく》によるさまざまな病巣に切り込むメスは比類なく鋭い。リアリスティックなテーマを抜群のストーリーテリングの才能で構成する彼の作品は、広範な読者の支持を得ているという。  棟居は、彼の作品を読んだのは、「深夜の出棺」が初めてであるが、確かに文末の俳句に象徴されているように、鋭いメスを連想させるような作風だとおもった。だがその鋭さの底には一種の狂気があるようである。  ある文芸批評家が「病質の気格」が作品を支えていると評していたが、なんとなくわかるような気がした。 [#改ページ]   忌避された要素      1  棟居は、波肇(古館豊明)に直接会ってみることにした。  紳士録に記載されている住所に電話して面会を申し込むと、細君らしい女性が出ていま取込み中だから会えないと言った。ほんの二、三分でいいから会ってもらえないかと粘ると、口をきける状態ではないのだと答えた。 「口がきけない? 交通事故にでも遭《あ》われたのですか」  棟居が愕然として問い返すと、 「一か月ほど前に脳卒中の発作を起こして、左半身と口に麻痺《まひ》が残っているのです。意識は戻ったのですが、口がきけません」  家人の声は沈痛であった。 「こちらの話しかけることはわかるのですか」 「わかっているようですけど、反応がはっきりしないので、なんとも言えません。とにかくいまは絶対安静で、どなたにもお会いしません」  取りつくしまがなかった。電話を切ってから古館の細君が言った「一か月前」という言葉が胸に引っかかってきた。一か月前と言えば、ちょうど楊君里が死んだ時期と符合する。彼女の死が古館の発作を促す引き金になったのではあるまいか。  こうなっては古館の回復を待つ以外になかった。脳卒中の死亡率は高く、半数が死ぬ。死亡の時期も早く、おおむね一週間以内に生死が判明すると聞いた。発作後一か月経過し、意識も戻ったと言っていたから回復に向かっているのであろう。二、三か月経てば口もきけるようになるかもしれない。しかし回復を当てにして二、三か月も虚しく待っていられない。口がきけなくとも、会いさえすれば、なんとか意思を疎通する手段があるのではあるまいか。  棟居は門前払いを覚悟の上で、強引に自宅へ押しかけてみることにした。古館は、二年前まで現在仕事場をおいているマンションの近くに住んでいたのだが、古い家を処分して、川崎市多摩区細山に新たな家を建てて移って行ったということである。  もより駅の小田急《おだきゆう》線|百合ケ丘《ゆりがおか》から、丘陵を緩やかに上って行く。このあたりは多摩の丘陵地帯で、幾重にも輻輳《ふくそう》した丘が、波のうねるように起伏している。  重なり合う丘と丘の間に細長い谷がアメーバの仮足のように入り込み、数万年の自然の侵蝕《しんしよく》と風化による彫琢《ちようたく》を施している。自然が途方もない年月をかけて大地に刻みつけた造化の工《たくみ》を、機械文明の先兵であるブルドーザーがたちまちのうちに削り取り、引き裂き、高低を均《な》らして、味も素気もない雛壇《ひなだん》に造成した。雛壇の上に、サラリーマンの一生の夢をかけたこぢんまりした建売り住宅が立ち並び、丘陵の景観を大きく変えていく。  丘陵の散歩と洒落込んで、多摩の自然を求めて来た人たちは、丘陵の頂が水平に削られ、あるいは雑木林に埋められていた谷間が整地されて、そこに忽然《こつぜん》として出現した新興の住宅街に驚く。都市化の波が、こんなデリケートな自然までも侵略していると言うより、膨張する都会の粗大ゴミが、無秩序に捨てられた観がある。サラリーマンの一生の夢が�粗大ゴミ�とあっては情けないが、丘陵のあちこちに蝟集《いしゆう》している新興住宅は、遠望するとき、ゴミの山に見えないことはない。  だが、この地域は、まだ�ゴミ�の量が少ないほうである。各家も比較的ゆったりと敷地を取っており、クヌギ、コナラを主体にした雑木林も生き残っている。  棟居が目指している細山地区は、地元で�長官山�という別称があるほど、警察の大物OBの家が集まっている。  古館家は丘陵を登りつめた見晴しのよい一角にあった。いかにも機能性と日照を重視したようなプレハブ鉄骨造の二階建の家である。家は道路から一段と高い台地の上に建てられている。道路から玄関までのアプローチは石段で結ばれている。家の下にトンネル式のガレージが造られていて、シャッターが下りていた。心なし、家を包む雰囲気に生気がない。  門柱に「古館豊明」の表札が出ている。  玄関にドアホーンが設けられてある。これがあると、相手の顔も見ずに追い返される公算が大きい。せめて家人と対面すれば、なんとか粘り込むのだが——と棟居は、用意してきた面会の口実を口中に復唱しながらボタンを押した。  間もなく屋内から機械的な声が、誰何《すいか》してきた。 「先日電話いたしました警察の者ですが、ちょっと奥様にお目にかかってお話ししたいことがございます」  棟居はできるだけ低姿勢に言った。 「あのう、主人はお会いできないと申し上げたはずですけど」  先方の声がとまどっている。 「いえ、ご主人にはお目にかからなくともけっこうです。奥様におうかがいしたいことがあるのです」 「私にですか」 「お手間は取らせません」 「どんなことでしょう、間もなく先生がお見えになるのですけれど」  先方の声が警戒している。古館は自宅で療養しているらしい。まだ本格的な移動ができない状態なのであろう。 「それはお会いして申し上げます。ほんの五、六分でけっこうです」  棟居は必死に食い下った。先方がようやく渋々と承諾した。玄関のドアが開かれ、五十歳前後の疲れた顔の女が覗いた。髪も乱れ、顔色も悪い。夫の看病で憔悴《しようすい》しているのであろう。  棟居は玄関|脇《わき》の応接間へ通された。当然のことながら、茶は出ない。応接間へ通しただけでも警察に対する畏《おそ》れと構えがあるのであろう。 「お取込み中のところ、突然お邪魔して申しわけありません」  棟居は非礼を詫びてから、五月三十日の夜、古館豊明がどこにいたか質《たず》ねた。のっけからアリバイを質ねたのであるが、細君の表情に特に反応はない。演技ができるようなしたたかさも持ち合わせていないようである。 「五月三十日は土曜日ですね、週末はいつも家に帰っています。その日も午後四時ごろ帰宅して庭の植木の手入れをしていました」  家族の証言であるから全面的には信用できないが、細君が事情を知らされていなければ、まずは素直な言葉と取ってよいであろう。棟居は次に、古館と楊君里との間に何か関係はないかと、質ねた。 「その人、どういう人なんですか」  細君の面には怪訝《けげん》の色が刷かれただけでなんの反応も現われない。 「実は五月三十日の夜、ご主人の仕事場に訪ねて来た形跡があるのですが、我々もその人とご主人の関係を調べておるのです」  棟居は、楊君里が死ぬまでの経緯と、彼女の�遺品�の本と、古館とのつながりをざっと説明した。細君は、楊君里が原因不明の死を遂げたと聞いて表情を改めた。最初に質ねたアリバイの意味も悟った様子である。 「楊君里などという名前は主人から聞いたことがありません」  細君は少し構えた口調で答えた。 「ご主人は、中国におられたことがありますね」  棟居は、じわりと聞込みの触手をのばした。 「そのように聞いております」 「陸軍の少年見習技術員と聞きましたが、どういうお仕事だったのですか」 「存じません。主人は中国時代のことを話したがりませんので」 「奥さんは、お聞きになったことがありますか」 「二、三度。でもいつも話題をはぐらかされてしまいました。きっと戦争をおもいだしたくなかったのでしょう」 「中国時代のご友人が訪ねて来たようなことはありませんか」 「お友達は時々訪ねていらっしゃいますが、どういう関係の方か知りません。ほとんどは編集者です」 「中国時代の……こだわるようですが、その時代の人の集まり、例えば戦友会のようなものはないのでしょうか」  もう約束の五分はとうに過ぎていた。 「さあ、存じません。仮にあったとしても主人は出席しないとおもいます」 「それはなぜですか」 「主人は、そういう集まりがあまり好きではないのです。出版社のパーティにもほとんど出ないくらいですから」 「楊君里は死んだとき、レモンをもっていました。彼女がもっていたご主人の作品中に——生体を裂きしメスにて檸檬割る——の句がありますが、この二つのレモンの間にはなにかつながりがあるのでしょうか。奥さんはこの作品についてなにかご主人から聞いたことがございますか」 「そう言えば主人はレモンが嫌いでした」 「なぜですか」 「紅茶にレモンの薄切を添えて出したことがあるのですが、そのときレモンを捨ててしまうのでわけを聞きますと、レモンから死体を連想するのだと言うのです」 「どうしてレモンから死体を連想するのでしょうね。そう言えばこの作品にも生体解剖の場面にレモンが出てきますが、作者がレモンに何を象徴させようとしているのか、よくわかりません」 「いっそ、主人に直接聞いてみたらいかがですか」 「えっ、ご主人に質ねてよろしいのですか」  意外なことを言いだした細君に、棟居は驚いた。 「先生が、記憶の回復を促すために、できるだけ話しかけるようにと言われたのです。脳のマッサージだと言ってました」 「それは有難い。ご主人は質問に答えられるほどに回復されたのですか」 「まだ口はよくきけませんけど、はいといいえは目《ま》ばたきや手を握って伝えられます」  棟居は、もう一つ細君に質ねたいことがあった。  それは古館が倒れたときの模様である。彼の発作と楊君里との間になにかの関係があるような気がしてならない。だが楊が引き金になったと細君に悟られると、せっかくのよい風向きを変えてしまうおそれがある。  細君は、棟居を二階へ案内した。 「二階の居室で、テレビを見ているときに発作を起こしたものですから、そのままそこに臥《ふせ》っているのです」  細君は問わず語りに、棟居の聞きたいことを言った。 「いつ発作を起こされたのですか」 「五月三十一日の朝のニュースをテレビで見ているときです。いつも午前七時ごろ起床して、テレビのニュースを見てから階下の食堂へ下りて来るのですが、その朝にかぎってなかなか下りて来ないので、様子を見に行くと、もう意識を失って倒れていました。最近血圧が高目で注意していたのですが、幸い出血が少なくて、間もなく意識を回復しましたが、動かさないほうがよいと先生に言われましたので、自宅で治療をつづけています。もう少し様子を見てから入院することになっています」  ニュースを見て倒れたという事実は、楊君里の死との関連を十分想像させる。事件の第一報はちょうどそのころ報道されたのである。  古館は二階の八畳の和室に寝ていた。写真よりかなり老けていたが、これは発作のせいであろう。二十一、二歳の若い娘が付き添っていた。彼女が古館の長女であろう。南面の明るい部屋で、家族の看護が行き届いているらしく、清潔に保たれていたが、室内にこもった病人のにおいは完全に追い出せない。  細君がまず病人の枕元へ行って、棟居の訪意を簡単に伝えた。発作による脳機能の障害が残っているらしく、表情に反応は現われない。  細君の目顔にうながされて棟居は、古館の床の脇に坐った。  彼はまず楊君里の旅券の写真を示して、この人を知っているかどうか質ねた。 「知っていれば瞼《まぶた》を閉じます」  傍らから細君が口を添えた。棟居の凝視の中で、古館の瞼が二、三度ピクピクと震えてからゆっくりと閉じられた。口の奥から言葉にならない声が発せられている。なにかしきりに言おうとしているようである。 「奥さん、何とおっしゃっているのですか」  棟居は、細君に救いを求めた。 「本棚の方を指しているみたい」  娘が口をはさんだ。病人に付き添っている間に母親以上に父親の表情が読めるようになったらしい。 「本棚?」  棟居は、娘の視線を追った。壁に沿って居間で読む当座の本を並べている木製の小型の本箱がおいてある。小説本が主体であるが、写真集や雑誌も多少混っている。 「お嬢さん、どの本を指しているのかわかりますか」  棟居は、娘の方を向いた。その本の中に、古館の意志が化体しているのであろう。 「お父さん、本箱の中の本が必要なのね」  娘が問いかけた。古館がゆっくりと瞼を閉じる。 「それでは、まず段から行きましょうね。上段、中段、下段、この中のどの段にあるの?」  娘の指が三段の本箱を上から順々に指した。指が下段を指したとき、古館の瞼が閉じられた。 「その本は下段にあるのね。それでは一冊ずつ指さしますから、その本に当たったら教えてくださいね」  指が左端の本から右方へ各本の背を撫《な》でながらゆっくりと移動する。下段には、三十冊ほどの本が並んでいる。三分の二ほどきたところで古館の瞼が下りた。そのときは指が通過していた。 「この辺の本なのね、時代考証事典、コリン・ウィルソンの殺人者、智恵子抄……」  彼女の指が一冊ずつ戻る。 「智恵子抄」の許で、古館の瞼が再び閉じられた。 「高村光太郎の智恵子抄ね」  娘は、詩集を抜き取った。  奥付を見ると、昭和十六年の版で、表紙はすり切れ、紙質は変色し、綴じ付けは崩れかけている。新たな版がいくらでも出ているのに、こんな古い版が保存されていたとは、一驚である。  目の前に差し出すと、古館はうなずくように何度も瞼を閉じた。「智恵子抄」のどこかに、あるいは智恵子抄そのものに古館の示唆するものがあるらしい。  棟居は、一頁ずつ丹念に繰ってみた。頁の中になにかの書込み、あるいははさみ込まれているものがあるかもしれない。頁の半ばほどへきたところで、棟居は、いきなり撲《なぐ》られたようなショックを覚えた。  その頁には「レモン哀歌」と詩題が刷られてある。棟居は、息をのむようにして、詩文を読んだ。   そんなにもあなたはレモンを待つてゐた   かなしく白くあかるい死の床で   わたしの手からとつた一つのレモンを   あなたのきれいな歯ががりりと噛《か》んだ   トパアズいろの香気が立つ   その数滴の天のものなるレモンの汁は   ぱつとあなたの意識を正常にした   あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ   わたしの手を握るあなたの力の健康さよ   あなたの咽喉に嵐はあるが   かういふ命の瀬戸ぎはに   智恵子はもとの智恵子となり   生涯の愛を一瞬にかたむけた   それからひと時   昔|山巓《さんてん》でしたやうな深呼吸を一つして   あなたの機関はそれなり止まつた   写真の前に挿《さ》した桜の花かげに   すずしく光るレモンを今日も置かう    (「智恵子抄」昭和十六年八月 竜星閣刊より)  再三にわたって「レモン」が現われた。もはやそれは偶然ではない。楊君里の死には、レモンが関わっている。レモンがどんな関わりをもっているのかわからないが、関わっていることは確かであった。  棟居は、智恵子抄を古館家から借りて辞去した。      2  帰途の電車の中で、楊君里と智恵子抄とのつながりを考えてみたがわからない。詩集のすべての頁を丹念に繰ってみたが、書込みやはさみ込まれたものはなかった。だが古館豊明は、この詩集に託してなにかを言いたかったにちがいない。詩集は帰ってからさらによく調べるつもりであった。  独りの思案に耽《ふけ》っていると、隣りの乗客の会話がなんとなく耳に入ってきた。 「まったく年寄りの縁起かつぎには泣かされる」 「どうかしたのかい」 「那須《なす》にリゾートマンションを買ったんだ」 「ほう、大した景気じゃないか」 「なに、中古をローンで買ったんだよ」 「それにしても大したもんだよ。おれなんか本拠すら賃貸だぜ。ところで年寄りがどうかしたのか」 「やっと買った部屋の番号が気に入らないと言うんだな。429だから死に苦だと言うんだ。至福にも通ずると説得したんだが聞き入れない。部屋を替えなければ絶対に行かないと言い張るんだよ」 「それはまた頑固だな」 「替えるったって、予算と相談してやっと買ったものだから簡単に取り替えられるものじゃない。同じ四階だと428は死に家、427は死に名、425は死に子、424は死に死、430は死産、どちらにしても死が付いて回る。三階は全部|占《ふさ》がっているし、五階以上は、値がぐんと嵩《かさ》む。まいったよ」  話し合っているのは、ゴルフ帰りらしい中年のサラリーマンである。棟居もそのサラリーマンの困惑がわかるような気がした。縁起かつぎは理屈では割り切れない。いくら迷信だと説得しても当人の心に染みついているのである。自分でも馬鹿馬鹿しいということがわかっていながら、どうにもならない場合が多い。一種の強迫観念となって当人の心理を搾《し》めつけているのである。  軽い同情を覚えかけていた棟居は、ハッとなった。いまの会話が心にわだかまっていた痼《しこり》を触発したのである。  楊君里は、ホテルで理由不明の部屋替えを要求した。あれは最初に割り振られた部屋番号を嫌ったのではあるまいか。彼女はなんらかの理由で731という番号を忌み嫌っていたのではないだろうか。しかし、731にどういう意味があるのか。いまの「死に苦」や「死に家」に当てはまるような番号でもない。外人は13という番号を嫌うのでホテルではそれを欠番にしている。だが731には内外人を問わず忌避すべき要素はなさそうである。  すると、楊君里にとって個人的な忌避要素があったことになる。それは何か?  思考をまさぐって、宙を泳いだ棟居の視線の先に車内の中吊り広告があった。  倒れる前に書いた作品であろう。波肇の新刊広告であった。 「波肇!」  棟居は、そのペンネームの示唆する重大な符合に気がついた。ナミハジメと731、これは偶然の一致であろうか。      3  古館豊明が、波肇のペンネームを使用するようになった由来がわかれば、731との関連も判明するかもしれない。  棟居は、帰署すると直ちにたったいま辞去して来たばかりの古館家へ電話をかけた。聞き憶《おぼ》えのある細君の声が応答した。すでに面識を得ているので、多少愛想がよくなっている。改めてペンネームの由来を聞くと、 「A賞を受賞したとき、担当の編集者から、受賞は、作家として立てるか立てないかのきっかけであり、文壇ジャーナリズムの波頭に乗り損うと、第一線になかなか立てなくなると言われたことから、波頭に立つという意味をこめてつけたのだと話していたことがあります」と答えてくれた。 「波頭に立つという意味ですか」  棟居は、質問の矢が的を失したようなおもいがしたが、あきらめずに、 「いかがでしょう、731という数字に因んでつけられたということはありませんか」 「731? それ何のことですの」  細君から逆に反問された。 「ナミハジメは731をもじっているでしょう」 「731なんて数字なんの関係もありませんわよ」 「たとえば生年月日とか、ご住所の番号とかあるいは、なにかご主人にとって重要な番号とかで、731という数字はないでしょうかね」 「ございませんわ」 「奥様や、お嬢様の生年月日、あるいは、結婚記念日などは……」棟居は食い下がった。 「該当する数字はありません」  結局、古館の細君からは、おもうような回答は得られなかった。「波頭に立つ」という意味をこめて波肇とは、いかにもこじつけめいている。棟居は、古館のペンネームには、必ず731との関連があるにちがいないとおもった。そして古館は、真の由来を伏せている。  作家の筆名の由来はさまざまである。有名なのは中国の古諺《こげん》の「石に漱《くちすす》ぎ流れに枕す」から取ったという漱石《そうせき》、失恋した女性の名に因んだ荷風《かふう》などがあるが、地名、細君の名前、郷里、子供の名前のもじりや友人の名との合成など多様である。  古館の出身地は岩手県|花巻《はなまき》市であり、特に筆名に影響するような地名ではない。  数字をもじったとすれば、それは古館にとって重要な数字であったにちがいない。彼の半生において、731という数字が重要な意味をもっていたのだ。そして、その数字を、中国から来た楊君里は忌避した。  必然的に、棟居の視線は、中国へ向いて行った。731という数字は中国にあったのではないのか。そして楊と古館は中国という共通項をもっている。古館豊明は、国民学校高等科を卒業後、陸軍の「少年見習技術員」となって満州国へ赴任している。楊君里は、満州北部の哈爾浜《ハルピン》市の出身である。するとこのあたりに731という数字があったのか。それは陸軍と関係のある数字ではないのか。  棟居の思案は次第に凝縮されてきた。      4  陸軍関係の兵籍の記録を公的に残している機関は、厚生省援護局調査室、および各都道府県の援護課や兵籍課である。また防衛庁防衛研修所戦史研究室には、陸海軍の戦史に関する詳細な資料が蒐《あつ》められている。  まず厚生省を当たった棟居は、そこに各個人の兵籍および兵歴が留められており、部隊単位の資料を求めるのに適していないことを教えられた。防衛庁へ行く前に、ふと気がついた棟居は、国会図書館へ赴いて731という数字から索引を引いてみた。数字からでは該当するような資料に当たらないので、軍関係や戦記、戦史におおまかな当たりをつけて引き直したところ、遂にそれらしきもの[#「もの」に傍点]を探し当てたのである。 「関東軍防疫給水部本部満州第七三一部隊」という陸軍の一部隊が実在していた。これ以外に731という部隊はない。  731部隊の資料文献を読んでいくうちに、棟居は、一見なんの変哲もなさそうなこの部隊が、恐しい秘密をかかえた特殊部隊であったことを知ったのである。文献による731部隊の輪郭は次のようなものであった。  731部隊は、昭和十三年ごろ石井四郎軍医中将の麾下《きか》「関東軍防疫部」の呼称で編成された。その実体は国際法で禁止されている細菌兵器の実験と研究を目的としたものである。  大規模な細菌製造能力を有し、表看板は防疫と給水にして、昭和十四年「第二次ノモンハン事件」に際し、ノモンハン地方一帯の水源地にチフス、コレラ、ペストなどの培養菌を撒布《さんぷ》して、かなりの�戦果�を挙げている。また多数(三千名以上)の捕虜を使って、伝染病、性病、凍傷などの生体実験を行なった。  棟居が注目したのは、この731部隊が世界の軍隊の中で初めて設けられた大規模な細菌戦研究機関であり、戦犯に問わないことを条件に米軍が同部隊の研究成果をそっくり譲りうけ、今日の米軍生物化学戦の基礎となったという事実である。米軍の生物化学戦部隊が朝鮮やベトナムで�非人道的兵器�としての毒ガスや細菌を撒布してみな殺し作戦を展開したことは、棟居も知っている。おもわぬ所に旧日本軍の非人道的な研究成果が相続されていたことになる。  古館豊明の筆名と、楊君里が忌避した731がこの細菌戦部隊に因んでいるかどうかまだ確定したわけではない。だが可能性は生じてきた。  731部隊のおかれた地は、資料によってまちまちであるが、おおむね「ハルピン郊外」という点では一致している。楊の出身地は、哈爾浜とされている。この辺にも可能性がにおっている。  古館豊明の兵籍が731部隊にあれば、可能性はますます大きくなってくる。棟居はまず厚生省に問い合わせてみた。ここの援護局調査室には陸軍関係の資料が蒐められている。  索引は、各部隊の正式名称あるいは通称となっており、内地部隊は記録が焼却されてしまったためにほとんど留められていない。  資料は、各部隊の編成から終戦までの動きと戦歴、および隊員の名前、生年月日、本籍、官等(階級)などにわたっている。ただしこれも外地にあって部隊が全滅したり、隊員の大部分が消息不明になったりして不完全なものが多いそうである。資料は本人の履歴に重なるので一般には公開されていない。また個人の詳しい兵歴は、都道府県庁の方に蒐められている。  棟居の問い合わせに対して、満州731部隊の記録は現地で焼却されており、なにも留められていないということであった。岩手県にも問い合わせてみたが、古館豊明の兵歴に関する記録はないという回答である。  外地で部隊が全滅したり資料が焼却されたりした場合、たとえ生存者がいても、本人が申し立てないかぎりなにもわからない。古館豊明は、自己の兵歴については黙秘している。わずかに筆名に731との関わりをほのめかしているが、それすら確定しているわけではない。  だが731部隊は実在しており、戦後米軍にその研究成果が引き継がれたのであるから生存者はいるであろう。文献によると、終戦時の人員は二千—三千人と記されている。彼らを探し当てれば、古館豊明と楊君里との関係もわかるかもしれない。  公的資料からの溯行《そこう》が絶たれたので、棟居は民間の機関に着目した。民間には、部隊別の「戦友会」が、全国各地にある。この戦友会を全国規模で束ねている機関はないが、比較的まとまっているのが、陸軍関係が「偕行社《かいこうしや》」、海軍関係が「水交会」である。この他、靖国神社の国家護持実現の促進を共通趣旨として集まった「全国戦友連合会」や在郷軍人の集まりである「郷友会」などがある。またこれらの会に入っていない戦友会も多い。  棟居は民間の戦友会を尋ね回って、731部隊が、それらのどの機関にも参加していないことを知った。731部隊は、日本陸軍の中に確実に存在しておりながら、その足跡を完全に抹消されているのである。  戦後、陸海軍のさまざまな戦記がそれらの生存者によって公けにされたが、731部隊に関しては生存者による資料は皆無と言ってよいほどに現われていない。明らかにされているわずかな資料も又聞きによる不正確なものや、売名を狙った暴露的なものである。  どこかにいるにちがいない生存者は、みな一様に息をひそめ、口に固い閂《かんぬき》を下ろしている。  古館豊明が731部隊の生存者であったとしても、わずかに筆名に同部隊との関連がうかがわれるだけで、彼は自分の戦前、戦時中の経歴については黙秘して語らない。  だが、彼の作品、「深夜の出棺」は、731部隊における生体解剖実験の経験が下敷きにされたのではないだろうか。専門的な医学用語を駆使しての、あたかも眼前で生体がメスで切り開かれていくような生ま生ましい解剖シーンの描写は、圧巻である。  731部隊は、いまもって、秘密のベールに包まれている。正確な記録が留められていないだけでなく、生存者が一様に黙秘している事実を見ても、同部隊にまつわる暗い影を感じさせる。  731部隊は、日本陸軍史の中の空白の部分になっているのである。  棟居の調べは、そこで頓挫《とんざ》した。楊君里と古館豊明の共通項が「731」ではないかというのも、棟居の臆測《おくそく》にすぎない。臆測を裏づけるものは、なに一つない。 [#改ページ]   同期の告別      1  棟居は、その朝出勤前になにげなく新聞を開いて、まだ眠気の残っている目を見開いた。社会面に、「作家」波肇の死去がかなり大きく報じられていたからである。記事の大要は、——五月三十一日|脳溢血《のういつけつ》の発作で倒れてから自宅療養をしていた波肇が、七月二十一日午後二時三十分ごろ再発作を起こして死去した。告別式は二十三日午後二時より自宅で。喪主は、妻美知代さん。——とあり、親しかった数名の作家による波の文学的業績や追懐談が載せられている。 (古館豊明が死んだか)  これで楊君里の死因を解くあえかな手がかりは失われてしまった。虚脱感と共にこれでよかったのだというおもいもある。謎《なぞ》を解明することによって、多くの人が傷つくようなことがあるのであれば、謎のまま手をつけずにおいたほうがよい。楊の形見のレモンと高村光太郎の「レモン哀歌」——この相関を探ったところで楊の生命が戻るわけでもあるまい。  棟居の追及心が安易に傾きかけたとき、訃報《ふほう》記事の中の「告別式は、二十三日午後二時より、自宅で」という文字が大きく浮かび上がってきた。  告別式には、古館の生前の友人や知己が焼香に来るにちがいない。この訃報を読めば、「少年見習技術員」時代の仲間もやって来るのではあるまいか。彼らに聞けば、楊君里と古館豊明との関係もわかるかもしれない。古館の告別式へ行ってみよう。安易さへの傾斜から刑事根性はすでに立ち直っていた。  古館家には「鑑」ができている。|百合ケ丘《ゆりがおか》の駅を下りると、すでに喪服姿の人が何人か見かけられた。自宅における告別式であるから、故人に親しかった人たちだけが集まってささやかに行なおうという趣意であろうが、有力な作家の葬儀ともなると、文壇やマスコミ関係、さらに芸能関係者などが多数集まり、日頃は閑静な「長官山」一帯に古館家を中心に喪服姿と車が溢《あふ》れていた。  庭に面した部屋に祭壇が設けられ、会葬者は矢印のコースに従って焼香をするようになっている。祭壇にはありし日の古館豊明の拡大写真が献花の間に飾られている。盛花、花束、花輪には、著名作家や各出版社、新聞社、テレビ局などの名前が入っていて、故人の生前の活躍ぶりを語っている。  祭壇に向かって右手に過日訪問した際に顔馴染みになった古館の細君が五つ紋の黒和服をまとい二人の子供と共に侍坐《じざ》して、弔客に挨拶《あいさつ》をしている。夫を失った悲しみに打ちひしがれてはいるものの、すでに一度倒れて療養中の再発作であったので、覚悟はできていたようである。  僧侶《そうりよ》の読経の間に遺族、親族、友人の順で焼香する。読経が蝉《せみ》時雨《しぐれ》と競合している。読経が終り、僧侶が祭壇の脇の席へ移ると、一般弔客の焼香が始まった。  棟居も、矢印に従って、門から庭へ進み、祭壇に立って焼香をした。焼香後、棺に侍坐している古館夫人に頭を下げると、彼女の目の色が軽く動いた。棟居を憶えており、彼の弔問を愕《おどろ》いたのである。  焼香をすますと、また矢印に沿って庭の外へ出る。焼香をすました人たちも、出棺を待ってほとんど帰らない。古館邸を囲んでおもいおもいのグループをつくって待っている。油照りの日で、みな汗を拭《ふ》きながら待っている。その中に著名な作家の顔も見える。一見したところ、古館の戦時中の�戦友グループ�が来ているかどうかわからない。  会葬者の焼香が終った。葬儀委員長である故人と親しかった作家が立って弔辞および閉式の挨拶をした。その際、委員長は故人の略歴に触れたが、その中においても、戦時中のことは空白のままであった。  告別式が終り、出棺の時刻が迫った。棺は祭壇から下ろされた。遺族と最後の別れをした後、供花で棺の中を埋め、棺の蓋《ふた》を�釘《くぎ》打ち�した。棺は会葬者の見守る中を近親者や友人にかつがれて霊柩車に運び入れられた。  火葬場へは近親者と有志のみ従いて行く。一般会葬者は三々五々と帰りかけた。梅雨明けの強い日射しが会葬者の黒い喪服に照りつけている。みな汗をにじませ茹《うだ》ったような顔をしていた。どの顔も暑くるしい喪服を早く脱ぎたがっている。  来るときはタクシーで来たが、帰途はこのあたりを流しているタクシーはない。バスだけが唯一の頼りであるが、本数が少ない。便乗を頼めるような知った顔も見えない。百合ケ丘駅まで歩くのが、一番手っ取り早かった。歩くのにはもともと馴れているが、徒労に終った張込みの帰途は足が重い。同じ方角に歩いて行く喪服のグループがいくつか見える。同じ様に足を失った一般弔客であろう。埃《ほこり》っぽい白い田舎道を汗を拭きながら歩いている。弔問の帰途は、一様に寡黙《かもく》になる。特に故人と同年輩の者は、その死を自分に重ね合わせて見つめる。故人への追慕が、明日は我が身のこととして重ね焼きされるのである。  五十代から六十代と見られる四名の男たちのグループが、棟居の少し前を歩いていた。肩を落とし、足取りが重い。道は下り坂にかかっていたが、みな上り坂に向かっているようである。会葬場では隅の方にいたのか目立たなかった。棟居は彼らが気がかりになってきた。一見、古館と同年輩の男たちである。文壇や出版関係者は車で来ていたから、その方面の人間ではないだろう。  古館と同年輩であることは、彼の大陸時代の戦友である可能性がある。棟居は、足取りを速めた。彼らのすぐ背後まで迫りながら、そのまま一定の距離を保って後に従《つ》いた。 「仲間が減る一方だな」  グループの一人がポツリと言った。そのまましばらく無言で歩いている。 「しかしなあ古館が先に行くとはなあ。彼は我々のホープだったのに」  べつの一人が嘆くように言った。 「ところで、秋の全国大会だがどうする」  三人目が口を開いた。 「おれは今年は止めるよ」  最後の四人目が言った。 「どうして?」  他の三人が歩きながら視線を集める。 「出席しても、もうおれたちの集まりではなくなっているからね。なんとなく乗っ取られちゃったような気がするんだよ」 「それは言える。会も初めの趣旨から離れたものになってきている」 「古館が元気なら我々少年見習技術員の軸になってくれるんだが」 「おれも欠席するよ。なにも無理して出て、昔の序列のままに会場の隅に縮こまっていることはないからな」  突如、男たちの一人の口から「少年見習技術員」が漏れた。棟居は確信をもった。彼らは古館の731部隊時代の戦友なのだ。  棟居は歩みを速めて一気に彼らに追いついた。 「突然で失礼します。あなた方は元731部隊の方ではありませんか」  棟居は追い抜きざま振り返って、はったりをかませた。まだ少年見習技術員と731部隊の間に関連があると確かめられたわけではないが、それが同部隊の一職制ではないかとやまをかけたのである。  男たちの顔色が変った。彼らの一人は愕然としたあまり、足許が少しよろめいた。顕著な反応であった。 「何ですか、そのなんとか部隊というのは? あなたはだれですか」  ようやく立ち直った一人が、反問してきた。——仲間が減る一方だ——と初めに嘆いた男である。半白の髪に細い目と尖《とが》った顔の持ち主であった。 「これは失礼いたしました。麹町《こうじまち》警察署の棟居と申します」  棟居は手帖《てちよう》を示しながら小腰を屈めた。 「警察の人が何の用ですか」  相手はますます身構えた。 「実は五月の末に来日した楊君里さんという中国人が亡くなったのですが、その件について調べておりまして……」  棟居は、楊と古館、および波肇と731との推測関係を手短に語った。 「それがどうして我々に関係があるのですか」  相手は依然として身構えを解かない。楊君里の名前にも反応を示さない。 「古館さんは戦時中、陸軍の少年見習技術員として731部隊におられたことがわかっております。ただいまあなた方のお話の中に少年見習技術員という言葉があったのを漏れ聞きまして、もしや当時のお仲間ではないかと、失礼を承知で声をかけたのです」  四名の顔に当惑の色が濃く塗られた。 「楊さんの死因には不審な点があるのです。楊さんは亡くなられる前に古館さんに会った状況があります。楊さんの死体のそばにレモンが落ちており、それについて古館さんに質《たず》ねたところ高村光太郎の智恵子抄を指したのです。ご存知かとおもいますが、智恵子抄の中にレモン哀歌があります。その関連が何を意味するのか。それが楊さんの死因になにかつながりがあるのか、その辺のところを明らかにしたいのです」  棟居の言葉を聞きながら四人の男は黙々と足を動かしている。百合ケ丘駅は近い。 「古館さんは言語障害のため、言いたいことを表現できませんでした。古館さんはレモン哀歌に託してなにかを我々に訴えようとしたにちがいありません。もちろん奥さんにも質ねましたがわかりません。古館さんが何を訴えようとしたのか、それを確かめるために、本日告別式に参ったのです」 「しかし、それをどうして我々に聞くのですか」  頬《ほお》の尖った男が質問を重ねた。 「楊君里さんが731部隊になんらかのつながりをもっているとおもうからです。もしあなた方が故人の戦友であるなら、そしてなにかお心当たりがあるなら、故人が楊さんの死について何を訴えようとしたのかおしえていただけませんか」 「心当たりなんかなにもありませんね」  相手はニベもなく言ったが、731部隊の戦友であったことは敢《あ》えて否定していない。 「そうですか、ご存知ないのでは止むを得ませんね。私は故人がなにかを訴えようとして、それを汲《く》み取られないままあの世へ逝《い》ったのでは浮かばれないのではないかとおもいましてね」  棟居は、自分自身が浮かばれないかのように未練をこめて言った。 「レモン哀歌が智恵子抄の中にあるとおっしゃいましたか」  二番目の男が棟居に問いかけた。古館を彼らの仲間のホープだと言った男である。 「智恵子抄の中のハイライトだとおもいます。詩にこういう言い方が許されるかどうかわかりませんが」  棟居は新たに声をかけてきた一人に視線を転じた。第一の男よりやや円みがあり、目の色が穏やかである。棟居には詩の巧拙はわからないが、レモン哀歌は言葉も平明で、白い死の床から一個のレモンによって束の間意識がよみがえる愛する人の哀切さがよく表われているとおもった。レモンは愛し合う二人の愛の象徴である。死が愛し合う二人を分かとうとしている間際に、一個のレモンがかすかに、そして必死に二人をつなぎとめている。その哀れさと切なさが棟居にも犇々《ひしひし》と伝わってくる。 「智恵子抄か……」その男は言葉を口の中で反芻《はんすう》した。 「なにかお心当たりがありますか」  棟居はわずかな希望をつないだ。 「智恵子という名前をどこかで聞いたような気がするのです」  男は記憶をまさぐっているようである。 「智恵子なんて名前はありふれているからな」  三番目の男が口をはさんだ。「全国大会」について話題にした男である。 「いや特別な関わりがあるような気がするんだ」 「特別な関わりとはお安くないじゃないか」  全国大会への出席を止めると言った四人目の男が覗《のぞ》き込んだ。 「いや、そんな浮いた関わりではない。どうも戦時中に引っかかるような気がする」  彼の目の色は真剣に過去を詮索《せんさく》している。 「戦時中? すると満州関係か……」  おもわず語るに落ちかけて、慌てて口を噤《つぐ》んだ。坂を下りきって広い通りへ出た。車の交通が急に激しくなる。駅はもう指呼《しこ》の距離である。駅へ着かれてはせっかく網に引っかかった形の四名を逃がしてしまう。 「いかがでしょう。その辺で少し憩《やす》みませんか」  棟居は誘った。ちょうど疲れてもおり、のども渇いていたらしい四名はちょっと顔を見合わせてからうなずいた。棟居に対する構えは、いっしょに歩いているうちに大分解けている。故人の訴えを明らかにしないと浮かばれないと言ったのが、かなり効《き》いている様子であった。      2  彼らは駅前に見つけたレストランに入って、とりあえずビールを注文した。暑い田舎道を歩いて来た身に冷たいビールは全身の細胞に沁《し》みわたるようにうまかった。ビールが棟居と四人の間をさらに近づけた。  そこで彼らは改めて名乗り合った。発言順に鶴岡《つるおか》、中西、楢崎《ならざき》、竹林といった名前であることがわかった。ただ名前を告げただけで731部隊の生存者であることを認めたわけではない。中西はビールを飲みながらも記憶を探っている。 「どうだ、智恵子さんをおもいだしたかい」  鶴岡が揶揄《やゆ》するように言った。 「ああ、おもいだしたよ」  中西が思案顔で言った。 「なんだ、おもいだしていたのか。だったらなぜ言わないのだ」  楢崎が言った。 「うん、それがな」  中西の歯切れが悪い。 「やっぱり、話し難いお安くない関係だったんだろう」竹林の声が軽い羨望《せんぼう》を含んでいる。 「そうではないのだ」  中西の面が当惑している。 「その智恵子という女性は731部隊に関わりのある人ですね」  棟居が自分の推測を口にした。そうでなければ、中西がおもいだしながら、「智恵子」の身許について明らかにすることをためらうはずがない。中西の表情がますます困惑した。そうだと答えることは、彼が731部隊の生存者である事実を認めてしまうことになる。他の三名の表情も当惑している。 「私はあなた方の経歴には関心がありません。731部隊がどのような任務を帯びた部隊であっても、私には関係ないことです。私はただ楊君里さんの死因を明らかにしたいだけなのです。いかがでしょうか、あなたのご記憶のある智恵子さんについてお聞かせねがえませんか」  棟居に頼み込まれて、四人は顔を見合わせた。ここまで来ては仕方がないと言うようにうなずき合った。 「私の満州時代の知合いの娘さんに智恵子さんという女性がいたのです」  中西が重い口を開き始めた。 「その知合いとは何という方ですか」 「奥山謹二郎さんという私の教官でした」  他の三名がおもいだした表情をした。 「教官とおっしゃると、軍人ですか」 「いえ、軍属です。判任官の。所属についてそれ以上は話せませんが」 「その奥山さんという方の娘さんだったのですか」 「そうです」 「奥山さんは、いまどちらにおられるのですか」 「わかりません。山形県出身の人だったのですが、終戦後消息不明になっております。ぼうゆう会にも出て来ませんので」 「ぼうゆう会というのは、戦友会のような集まりですか」 「いえ、それはそのう……我々の戦後の有志によるごく内輪の集まりです」  中西は、うっかり口を滑らせたことを悔いているようである。中西がぼうゆう会について語りたがらないようなので、その詮索はひとまず保留して、 「奥山さんの娘さんが智恵子さんとおっしゃったのですね。字も同じですか」 「そうです」  しかし、智恵子というありふれた名前が共通であったところで、それだけでは、特定のつながりにならない。中西は棟居の肚裡《とり》を読んだように耳寄りな情報を漏らした。 「実は、奥山|属《ぞく》いや奥山さんは若い頃高村光太郎の奥さんの智恵子と親しくて、それに因《ちな》んで娘さんに同じ名を付けたのだと言ってました」 「それは本当ですか」  棟居は、おもわず身体を乗り出した。ここに初めてかすかな接点が生じかけていた。中西らは明言しないが、731部隊の生存者であるにおいが強い。同部隊の上官の中に、高村智恵子と親しかった者がいたという情報は見すごせない。 「奥山さんの娘さん、その智恵子という人はいまどちらにおられるかご存知ではありませんか」 「死にました」 「死んだ!」  せっかく触れかけた手応《てごた》えがまたプツリと切れた。 「戦地でね、当時二十一、二歳だったとおもいます。我々より四、五歳上だったとおもいますが、きれいな人でした。休みの日に奥山さんの家へ行くと、彼女が親切にもてなしてくれるのでみんな楽しみにしていました。きみたちも行っただろう。牡丹餅《ぼたもち》なんかよくご馳走《ちそう》してくれた」  三人とも完全におもいだしたようである。 「どうして亡くなったのですか」 「病気です。何の病気だったかよく知りませんが、解剖した軍医が露骨に身体の特徴を話していたので憤慨したものです」 「解剖したというと、犯罪の疑いでもあったのですか」 「犯罪の疑いはありませんでしたが、我々隊員と家族は病死した場合、死体を提供する義務を負わされていました」  中西の話は、731部隊を暗示している。同部隊と高村光太郎のわずかな接点は、奥山謹二郎という人物にかけられていた。 「奥山さんの行方の手がかりはなにかないでしょうか」  山形県の人というだけでは、雲をつかむような話である。また四人は当惑したようにたがいの顔をうかがった。多少の手がかりを知っているのであるが、話すべきかどうかためらっている気配である。戦後三十六年してもいまだにこの口の重さは、よほど厳重で執拗《しつよう》な箝口《かんこう》令を布かれたのであろう。 「なにかご存知のことがあったら教えてください。あなた方にご迷惑はかけません」  棟居は、必死にすがりついた。 「私の口から出たということは黙っていてくれますか」  中西が念を押した。 「もちろんです。お約束します」 「我々には、昔の仲間しか友人はいないのです。誓約に背いてしゃべったことがわかれば仲間から村八分にされてしまうのです」  他の三人が目の光を強めてうなずいた。よほど結束の固い仲間のようである。戦場で生死を共にした戦友会の結束の強さはわかるが、会についてなにか話しただけで村八分にあうというのは、異常である。それはその戦友会の基盤となっている部隊の秘密と、暗い性格を暗示するものではないのか。 「ご迷惑はおかけしません」  棟居の再約にようやく安心したように、 「その人が知っているかどうか知りませんが、奥山さんと親しかった人がいます」 「その人はどちらにおられるのですか」 「熱海《あたみ》に住んでいます。ちょっと住所は憶えていないのですが、名簿を見ればわかります」  それが先刻ちょっと漏らした「ぼうゆう会」の名簿であろう。 「その人は何という名前ですか」 「神谷《かみや》さんといいます。やはり我々の教官でした。一昨年の集まりのとき、熱海で英語塾を経営していると話していました」 「その人の住所をぜひ教えてください」  注文した数本のビールが空になった。棟居はこれ以上この場で押しても四人がたがいに牽制《けんせい》し合って口が解《ほぐ》れないのを悟った。彼らを一人ずつ当たれば新たなものが出てくるような気がした。  棟居は、中西の住所を聞いて、伝票をつかんだ。他の三名の住所も、いずれ中西から手繰り出せるとおもった。 [#改ページ]   寂寥《せきりよう》の谷、絶望の岸      1  中西から聞いた神谷の住所は、熱海市|清水町《しみずちよう》である。熱海の市街は海岸から背後の山腹にかけて、這《は》い上がるように発達し、相模灘《さがみなだ》に面している。  事前に連絡を取ると、面会を拒否される恐れがあったので、無駄足を覚悟の上で抜き打ち訪問をすることにした。  熱海の駅に下り立つと、駅頭に屯《たむろ》した旅館の客引きが、宿は決まっているかと寄って来た。客引きをいなして、構内タクシーに乗った。地図を見ると、大した距離ではなさそうだが、不案内の土地なので、タクシーに任せることにした。車は海岸の方角に向かって坂を駆け下りて行く。まだ時刻が早かったせいか、街に人影は疎《まば》らである。旅館や商店も活気がない。この街が本領を発揮するのは、夜に入ってからなのであろう。  気温は高いが、海の方から涼しい風が来るので、しのぎやすい。  神谷の家は、初川《はつかわ》という小さな川の岸の裏通りに、「神谷英語塾」の看板を出していた。案内を乞うたが、屋内に人の気配はない。その家だけでなく周辺も森閑としている。街全体が昼寝をしているように静かであった。玄関に立って何度か空しく呼びかけたが、応答がない。すぐ近くに魚市場《うおいちば》があって空気に魚臭が漂っている。  棟居の気配に隣家の窓から人が覗いた。その中年の主婦に、神谷は留守かと問うと、多分「シュマン」にいるだろうと答えた。 「シュマンと言いますと?」 「喫茶店です。奥さんが亡くなってから、塾のないときはいつもそこへ行ってます」 「その店はどこにあるのですか」 「ニューフジヤホテルのビルの中にあります。市役所の少し先です」  隣家の細君からシュマンの場所を聞いて、いまタクシーでやって来たばかりの道を引き返した。ホテルのビルの一角に、歩道に面して円卓が置かれ、「おいしいコーヒーをどうぞ、カフェ・デュ・シュマン」という勧誘板《コールボード》が出されている。  シュマンは、ビルの奥にあり、白い壁と黒い付け柱でデザインされた地下室のような密閉された雰囲気の店であった。狭い通路を経て店内に入ると、正面にカウンター、左手に四人用の造り付けボックスと食器棚《カボード》、右手に疑似暖炉を囲んでテーブルが四、五脚おかれている。店内の照明は暗く、店の閉所感とあいまって隔絶された小宇宙としての落着きをかもし出している。客は、疑似暖炉のそばのテーブルに着流しの老人が一人見えるだけである。ということは、その老人が目指す神谷であることを示す。  老人はかなりの高齢である。七十代後半、あるいは八十代に入っているかもしれない。坊主刈りの髪は真っ白で、眉毛《まゆげ》も白い。身体はいわゆる「鶴《つる》のように」痩《や》せているが、折れ曲ってはいない。テーブルには空になったデミタスのコーヒーカップがおかれている。上体を椅子の背に凭《もた》せかけて、目を半眼に閉じ、店のバックミュージックに聴き入っているようであった。  棟居は、老人の隣りの席にさりげなく腰を下ろした。だが老人は棟居の気配に微動もせず、自分一人の殻の中に閉じこもっているようである。そんな老人は、あたかも木彫りの仏像のように見えた。  ウェイターがオーダーを聞きに来た。この店は女性の従業員をおいていないようである。オーダーが届くまでかなり長い時間待たされる。客の注文に従って丹念に「点《た》てる」本格派のコーヒーなのである。  棟居は、その間、老人に話しかけるきっかけをうかがった。だが老人の身辺には、他人のアプローチを拒否する閉鎖的な雰囲気が感じられて、なかなかきっかけをつかめない。そのうちにオーダーが届けられた。凝ったデミタスのカップから香り高いコーヒーが鼻腔《びこう》をくすぐる。束の間、棟居の関心がコーヒーに向きかけたとき、老人がかすかに身じろぎをした。 「わしにもう一杯モカを点ててくださらんか」  老人は、棟居にオーダーを運んで来た店の者に言った。老人のアンコールは、たまたま棟居のオーダーと同じであった。老人と棟居の目が合った。 「ほう、あなたもモカですか」  意外に老人のほうから声をかけてきた。 「どうしてわかるのですか」  棟居がやや驚いて反問すると、 「香りでわかります。——と言いたいところじゃが、実は、そのカップですよ。この店では注文に応じてカップが決まっておるのです」  老人は答えて、 「この店のコーヒーはいい。ちょっとこれだけのコーヒーを飲ませる店は、ざらにはありませんよ。それがあなた、ここへ来て、アイスコーヒーやレモンスカッシュを注文するやつがいる。アイスコーヒーなんて、あれはコーヒーじゃありません。まずいし、発癌性《はつがんせい》も強いし、あんなもの飲むやつの気が知れない」  老人は、自閉的どころか、話し相手に飢えていたらしい。ひとしきりコーヒー談義を聞かせてくれた。頃合いを測って、棟居は、 「あなたは、神谷さんですか」と切り出した。 「どうしてそれを!?」  神谷の表情が驚いた。 「実は、古館さんの葬儀で、神谷さんのことをうかがいまして……」 「ああ、古館君か、彼は意外に早死にしてしまいましたなあ。葬式には行けませんでしたが、もっと長生きして活躍してもらいたかった人だった」  神谷の面に追悼の色が刷かれた。 「実は、関連して少々おうかがいしたいことがございまして参上したのです」 「なんだ、私に会いに来られた方ですか」  神谷は改めて棟居に視線を向けたが、べつに警戒の構えはない。棟居は簡単に自己紹介をすると、楊君里の死についてざっと説明して彼女の名前に心当たりはないかと質ねた。神谷はまったく彼女を知らない様子であった。  つづいて楊と古館豊明との間になんらかのつながりがある状況と「智恵子」と奥山謹二郎との�接点�について述べ、奥山の行方を探しているのだが、知っていたら教えてくれないかと頼んだ。ただし神谷の名前と住居を中西から聞いたことは伏せた。 「奥山さんねえ、しばらく音沙汰《おとさた》がないが、果たしてまだ存命していますかなあ」  棟居の話を聞いて、神谷は茫漠《ぼうばく》たる表情になった。 「奥山さんは、そんなお年なのですか」 「私より五、六歳上でしたからな、お元気ならばそろそろ米寿じゃなかろうか」  すると、神谷も八十歳を越えていることになる。 「奥山さんのご住所はどちらですか」 「五、六年前に来た最後の手紙では、群馬県の前橋になっていましたな」 「いまでもそちらにお住まいでしょうか」 「さあ、その後こちらも住所を移転したりしまして、いつの間にか疎遠になってしまいましたからね」 「奥山さんの最後の住所を教えていただけませんか」 「家に帰って住所録を見ればわかりますよ」 「奥山さんとはどのようなお知合いだったのですか」 「あなたはなんにも知らないで私の所へ来たのですか」  割合滑らかであった神谷の口が、ここへきて少し滞った。 「神谷さんも古館さんも奥山さんも731部隊の生き残りだったのでしょう」  棟居は、誘導《カマ》をかけてみた。 「やっぱりご存知だったのですね」  神谷が仕方がないというように口辺に笑いを刻んだ。ここに、楊君里と古館豊明と731部隊のつながりは確かめられたのである。 「楊君里がホテルの部屋番号を忌避した点から731部隊となんらかのつながりがあったと推測されます。その辺の事情を古館さんと奥山さんがご存知ではないかとおもわれるのですが、古館さんが亡くなられてしまったので」 「残るは奥山さんということですか」 「いかがでしょうか、あなたと奥山さんや古館さんはどのようなご関係だったのですか。さしつかえのない範囲でけっこうですから、お話しいただけませんか」  棟居は、神谷の老いの滲《にじ》んだ面に視線を凝らした。古館豊明の告別式に来ていた�四人組�の口を割らせることはできなかった。彼らは秘密を漏らすことによって戦友から村八分にあうのを恐れていた。だが、八十歳を越えた神谷の場合、生きるべき余生は、たかが知れている。村八分に対する怯《おび》えも、五十代の四人組とは異なるだろうと見た。  束の間、ためらいが神谷の面に揺れたようである。 「神谷さん、私は可哀想なのですよ、この楊君里という中国人が。彼女は、戦争によって引き裂かれた夫と子供に会うために、戦後三十六年も経ってから日本へやって来て、死んでしまった。彼女はなぜ死んだのか。殺されたのであれば、是非犯人を挙げてやりたい。彼女の死の背後には、731部隊がからんでいるようなのです。ご協力いただけませんか」  棟居に詰め寄られて、神谷の面からためらいが消えた。 「わかりました。棟居さんはその中国人女性の元の夫が731部隊の関係者ではないかと考えておられるのですね」  神谷の皺《しわ》に陥没しそうな目が、真直に棟居を見た。 「私の臆測ですが」 「731部隊の最盛期には、三千人以上もの人間がいました。隊員の中には中国人の女性と結婚した者、あるいは恋愛した者もいたかもしれません。奥山さんと私は、少年見習技術員の教官で、もっぱら少年たちの教育に当たっていたので、隊員の結婚問題についてはあまり知りませんが」  神谷の口から「少年見習技術員」が出た。やはりそれは731部隊の中の存在であったのである。 「古館さんも少年見習技術員であったと聞いていますが、それは731部隊の中のどういう存在だったのですか」 「731部隊がどういう性格の部隊であったかは、おおよそご存知なのでしょう。これまで文献などで紹介されておりますから」 「昭和十三年ハルピン郊外に編成された細菌兵器の開発と研究を目的にした部隊ということですが」  棟居は文献から得た知識を復唱した。 「実際の創設はもっと古く、昭和八年(一九三三年)です。初めは部隊の性格を秘匿するために『加茂《かも》部隊』と呼ばれたのです。昭和十四年ごろにハルピンの北二十キロの当時|平房《ピンパオ》という町に隣接して、五キロ四方の三千人を収容する大軍事施設をつくり、『東郷部隊』と名を変え、通称、満州第731部隊を名乗るようになったのです。  少年見習技術員は、成績は優秀だが家庭が貧しくて進学できない少年を集めて731部隊生え抜きの技師や医事技術者を養成する目的で設けられた制度です。  731部隊には十四歳から十六歳までの少年見習技術員が一期生から四期生まで教育されていました。第一期生は一班二十七名の内務班四個班編成で、総員百八名、これに教育部長一名、少年隊長一名、教官十三名それに助手が数名付きました。古館君は、その第一期少年隊員として十四歳のとき昭和十七年の春、731部隊に入隊して来たのです。少年隊員には将来、731部隊の中核隊員となるために、数学、物理、化学、語学、国漢、地歴、軍事学それに生理学、博物、細菌学などが教えられ、奥山さんは軍事学、私は陸軍通訳生で英語を担当していたのです。731にはロシア語、中国語、英語の通訳官、通訳生が部隊給費生としてハルピン学院を卒業した三名を含め十名前後いました。中でもロシア語の葵中尉はロシア人が舌を巻く程のベテランでした。……」  年齢から推測して四人組も古館と同期の少年隊員であったのだろう。 「そういうご関係だったのですか。ところで奥山さんには智恵子さんというお嬢さんがおられたそうですが」 「色白のポッチャリした可愛い娘さんでしたな。少年たちのアイドル的存在で、休日にはみな奥山|属《ぞく》の官舎に遊びに行くのを楽しみにしていたようです」 「奥山ぞくとは?」  棟居は、中西が同じ言葉を使いかけて言いなおしたことをおもいだした。 「それは軍属の官職です。技術系を技手、事務系を属、語学系を通訳生、教職系を助教といって、いずれも判任官です。軍事学の奥山さんに属というのは少し変ですが、事務系の定員が非常に少なく属官(高等官)の西川さんと二人だけだったと記憶しております」 「奥山さんの娘さんは亡くなったそうですね」 「心臓が弱くてね、昭和二十年の五月ごろだと聞いています。私はちょうどその少し前に孫呉の支部に配転されていたので詳しい事情は知らないのですが」 「奥山さんは、高村光太郎の奥さんと親しくて、娘さんに智恵子と名づけたそうですが、その辺の事情についてご存知ですか」 「そんな話を聞いたことがありますな。高村智恵子、当時は長沼智恵子に弟のように可愛がられたと言ってました」 「高村夫人とどこで知り合ったのですか」 「だいぶ前に聞いた話で、記憶がかすんでいますが、奥山さんが中学生の頃海へ行ってそこで知り合ったようなことを言ってましたな」 「どこの海ですか」 「さあ、聞いたような記憶もあるが、憶えておりません。もう三十年いや四十年ほども前になりますからな」  神谷は茫洋《ぼうよう》として遠い目つきになった。あえかな手がかりの「智恵子」は、神谷の遠い記憶と共に茫々《ぼうぼう》とかすみかけていた。 「楊君里が死んだそばにレモンが転がっていたのですが、それについてなにかお心当たりはありませんか」 「レモンですと?」  神谷の表情が少し動いた。 「なにかご存知ですか」 「智恵子……いや高村夫人の智恵子のほうですが、彼女がレモンの香が好きだったという話を奥山さんから聞いたことがあります」  レモン哀歌に歌われたことは、�象徴�としてではなく、事実に基づいていたのであろうか。智恵子は精神分裂病を発症する以前から、おのれの中に潜む病魔に気づいており、レモンの香気によって病魔の台頭を抑えようとしていたのであろうか。 「731部隊の生存者による戦友会のようなものはあるのですか」 「智恵子」の線からの追及を一時保留して、棟居は、質問の鉾先《ほこさき》を転じた。四人組の中西が口を滑らせた「ぼうゆう会」のメンバーから糸を手繰れるかもしれない。 「731部隊の生存者はおおかた世を憚《はばか》って生きていますので、表立っての戦友会のような組織はありませんが、昭和三十年の夏から、多磨《たま》霊園に同部隊の犠牲者の霊を慰めるために精魂《しようこん》塔を建立し、毎年八月十五日以後、最初の日曜日に旧隊員が集まって慰霊祭を行なっています。これの有志の集まりを�精魂会�と呼んでいます」 「その他にはありませんか」  精魂会をぼうゆう会と聞きちがえることはあるまい。 「この精魂会に元少年隊員が何名か参加したのがきっかけになりましてな、昭和三十二年十一月少年隊員の第一期生とその家族が集まって結成した親睦会《しんぼくかい》に、噂《うわさ》を伝え聞いて元の隊員が参加するようになりました」 「その親睦会に名前がありますか」 「房友《ぼうゆう》会といいます。ふさの友と書きます。房は部屋や家の意味があります。一房から出たという意味でしょうか」  棟居はそれだ! とおもった。古館も四人組も房友会のメンバーだったのである。 「すると、房友会には731部隊の生存者はほとんど入っていますか」 「そうとはかぎりません。部隊解散後消息不明となった者もいますし、部隊長だった石井中将の家族や、高級将校の多くは入っていません」 「石井中将は、その後どうなったのですか」 「昭和三十四年十月九日|喉頭癌《こうとうがん》のため新宿区|若松町《わかまつちよう》の自宅で死去しました。亡くなる一年前の三十三年八月十七日精魂会の慰霊祭に突然姿を現わして元隊員をびっくりさせました。  石井は全員の前で軽く一礼をすると静かに挨拶を始めました。——諸君は日本に引揚げてからさぞかし731部隊の隊員であることに肩身の狭いおもいをしてきたことだろう。しかしこれからは731の一員であったことに誇りをもってもらいたい。石井部隊を戦犯であるという人がいる。しかし731は断じて戦犯ではない。731は日本民族を欧米の侵略圧迫から救うための研究機関であった。——その声にはさすがに昔日の張りは失われていたが、語気には鋭いものがありました。  会が終って立ち上がったとき、石井はよろめきましてね、体の巨《おお》きい人でしたが、昔の部下に支えられて会場から出て行く後ろ姿に、私は、石井部隊長の時代は終ったのだなと実感したものです。悪魔の軍隊の創設者と言われ、細菌学の大天才、細菌戦術の第一人者も癌には勝てなかったのです。あのときが、オヤジ、我々は部隊長をそう呼んでいましたが、オヤジを見た最後でした」 「石井部隊の性格については、種々語り伝えられていますが、それにしては戦後三十六年しても元の隊員の口の重さは異常ですね」 「我々は教育部でしたが、第一部である研究部では残酷な生体実験をしていましたからね。私もそのことに関しては多少知っておりますが、語りたくありません。終戦後八月二十四日、萩《はぎ》、門司《もじ》、博多等へ分散上陸して解散するとき、731は軍の極秘部隊である。身分が露見したら全員殺される。身分証明となるものは全部焼却せよ。隊の性格や隊員の名前は死んでも漏らすな。たとえ肉親、親戚《しんせき》といえども、また独身者は将来結婚しても配偶者にすら語ってはならない。この秘密を墓場までもっていけと言われたものです。しかし私のようにいつお迎えが来るかわからない年齢になりますと、なにもしゃべらず秘密を背負うということは重荷ですな。隊員に迷惑をかけない程度に、荷を下ろしたくなります」  その下ろした荷がこれまで語ってくれた分であろう。その後神谷の話は急に愚痴っぽくなった。復員後しばらく沼津《ぬまづ》の細君のサトに身を寄せていたが、731の経歴を隠さなければならないので、ろくな仕事に就けなかった。語学力を買われて進駐軍要員の口がかかったが、経歴が露見した場合を考えると、恐《こわ》くて行けなかった。私立高校や英会話学校のパート講師の口を見つけてようやく糊口をしのいできた。三年前からいまの場所で英語塾を細々とやっているが、もう自分の古ボケた英語など習いに来る者はない。昨年女房を失って天涯孤独の身になってからは、一日の大半をこの喫茶店に来てボンヤリとすごしている。——というようなことを語った。  辛抱強く愚痴を聞いてやった棟居は、ようやく語り疲れたらしい神谷に、奥山の住所を教えてくれと言った。 「これはつまらないことをお話ししてしまいました。ご足労でも拙宅までお越しください」  神谷は、我に返ったように立ち上がった。初川べりの神谷の家まで戻ると、彼は汚ない所だが上がれと勧めてくれた。三間ほどの古い平家《ひらや》である。招じ入れられた部屋は八畳の間で、細長い和机が二脚おかれ、壁に黒板がかけてある。一人暮らしの老人の家にしては整頓《せいとん》されているが、無住のように生活の臭いがない。 「今日は生徒さんは来ないのですか」  棟居が遠慮してためらうと、 「夕方にならなければ来ませんよ。よく集まって五、六人でしょう。毎日開店休業の状態です。生徒がよく言うんですよ。ぼくたちが来たとき、先生独りで死んでいるかもしれないねと」  それが不安で喫茶店に入りびたっているのだろうか。  神谷は、�教室�に棟居を待たせて、隣りの部屋で気配を立てていたが、間もなく、古いアルバムと手帖を手にして出て来た。 「手紙が保管してあるとよかったのですが、移転するときに整理してしまいました。しかし、珍しい写真が残っていましたよ。731時代、奥山さんと生徒たちといっしょに撮った写真です。731では、いっさいの写真撮影は禁止されていたのですが、教官の一人がカメラをもっていて内緒で撮ってくれたのです」  神谷が開いたアルバムには壮年のころの神谷と五十前後の男を囲んで三名の少年が写されていた。写真は黄色く変色しており、ややブレているが、顔形は、はっきりと捉《とら》えられている。場所は兵営の中らしい。板張りの床の上にベッドが並べられ、壁に沿って毛布、衣類、私物箱などが所定の位置にきちんとおかれている。写真で見る陸軍の内務班の光景にそっくりであった。  棟居は、少年の一人に見憶えがあった。中西の稚《おさな》いころの顔がカメラにおどけたポーズをしている。棟居は危うく反応を現わしかけて抑えた。中西から神谷の所在を聞いたことは伏せる約束であった。 「この方が奥山さんですね」  棟居はさりげなく五十年輩の男を指した。穏和な風貌《ふうぼう》でこれといった特徴はない。教官、生徒共に階級章が軍人のそれと違っており、これが背景の�兵営�と不調和になっている。 「731部隊の写真はこれだけですか」  棟居は、さりげなくアルバムの他の頁を繰ってみたが、あとはすべて戦後の国内におけるスナップらしい。 「それだけです。とにかく731にいたことを示す資料はすべて焼却するように言われたのです。万一元の身分がバレれば、全員戦犯として処刑されると脅《おど》かされましたからね。いまでも警官が戸籍調べ(巡回連絡)に来たりすると、ドキッとします」 「奥山さんの住所を教えていただけませんか」 「そうそう、肝腎《かんじん》のことを忘れていました。ちょっと待ってくださいよ」  再度促されて神谷はアルバムと共にもってきた手帖を開いた。 「前橋市|岩神町《いわがみまち》二丁目となってますな」  棟居は、神谷が示してくれた住所を素早く書き取った。その住所録は、神谷が個人的に作成したもので、「房友会」のリストではなさそうである。 「731部隊の生存者のリストはおもちですか」  棟居はおもいきって質ねてみた。奥山謹二郎が、前橋から移転している場合、房友会のメンバーリストから行方を追えるかもしれないとおもったのである。 「ございますが、これは会員以外に見せないという会の規則になっています。いま公表してもどうということはないとおもいますが、いまだに戦犯の罪に問われるのではないかと戦々|兢々《きようきよう》としている者もいますのでね」 「房友会の会員は何人くらいいるのですか」 「最も新しいリストでは百四十名くらいでしょうかね。これは家族を加えない数ですが」 「毎年、全国大会があるそうですが」 「毎年とはかぎりません。最近では一昨年の九月に萩で第八回の全国大会が開かれました。私も出席しましたが、奥山さんは来ていなかったですな」 「今年も開かれると聞きましたが」  だれから聞いたと問われたら、古館の細君からと答えるつもりでいたが、神谷はべつに詮索もせずに、 「今年は十月に名古屋の方で行なうことになっています。それまで生きていれば、私も出席するつもりでおりますがね」  神谷は寂しげに笑った。 「もう一つ聞かせてください。房友会のみなさんは、旧731部隊の生存者か、関係者でしょう。軍の極秘部隊として、隊の性格を秘匿し、終戦後もその経歴を隠し、世間を憚るようにして暮らしています。元隊員や家族にとって731の記憶は忌むべきものとしておもいだしたくないはずだとおもうのですが、まるで青春を分かち合った同窓会のように集まるのは、なぜですか」  棟居は少し意地が悪いとおもったが、敢《あ》えて質ねた。神谷はべつに気を悪くした風もなく、 「それだからこそ結束が固いのです。731は国際法上というより人道上許されない部隊でした。731部隊は謀略の一戦術として密かに使用されていた細菌を、正規戦の戦略兵器として解放してしまったのです。隊員の一人一人が世間に出してはならない悪魔の鎖を断つのに手を貸したという自責をもっています。それだけに昔の戦友だけが仲間なのです。連帯の絆《きずな》は一種の共犯者意識と言ってよいでしょう。戦後三十数年しても、その自責は消えない。もう戦争は終ったのだと自分に言い聞かせてもだめです。我々にとって731だけが人生であって、それ以後は地下に潜っているようなものです。新しい友達もできない。つくろうともしない。全国大会に家族を伴って出席できる人は幸せなほうです。いまだに夫の経歴についてなにも知らない細君が多い。私の女房も、死ぬまで私が731の生き残りであったことを知りませんでしたよ」  神谷は索然たる表情になった。  経歴を秘匿しながらも、忘れ得ざる青春の実質として、精神の中核に据えられている。それだからこそ、波肇という筆名として現われたのであろう。時刻がだいぶ経過していた。そろそろ彼の生徒の来る時間が迫っていた。 「今日はいろいろと貴重なお話をうかがえて有難うございました」  棟居が礼を述べて腰を浮かしかけると、 「よろしかったら、この写真をお貸ししましょう。私がもっていても仕方がない。捜査の参考になれば幸いです」  神谷は、写真をアルバムから剥《は》がしてくれた。  まず奥山謹二郎の最後の消息がつかめた。  その住所に果たして存命しているかどうか、はなはだおぼつかないが、とにかくようやくつかんだあえかな手がかりである。前橋ならば、大した距離ではない。棟居は、早速、奥山の住所を当たってみることにした。      2  前橋まで上野から約二時間である。群馬県の県庁所在地であるが、交通の便は上越《じようえつ》線からはずれていて悪い。  七月の炎暑に焼け爛《ただ》れているような関東平野を二時間も列車に揺られるのは辛かった。  前橋の市域は赤城山《あかぎさん》の南西の裾野《すその》から、関東平野にかけてなだれ落ちるように発達している。市域のどこからも赤城山の眺めが雄大である。冬はその広大な斜面を赤城|颪《おろ》しがなんのスクリーンもおかずに市域から関東平野に向かって吹き抜けていくが、いまは山麓《さんろく》一帯がフライパンの底のように暑熱に焙《あぶ》り立てられていた。夏熱く、冬は寒い苛烈《かれつ》な自然風土である。  奥山の住所、岩神町は市域の北東部にあり、利根川《とねがわ》べりである。岩神町は古い住居表示で、いまは「岩神」となっていた。  まず前橋署に寄って挨拶をし、協力を要請した。署のパトカーに便乗させてもらって、奥山の住所地を調べたが、該当する番地にはマンションが建っており、その敷地の以前の住人の消息はわからなかった。  受持派出所の住民案内簿を溯《さかのぼ》って調べてもらったが、該当する住人は記載されていない。外勤巡査は、一人平均四百世帯と言われる受持区域内の家庭あるいは事業所を戸別訪問して防犯、交通事故防止などについての連絡をしたり、住民の警察に対する意見を聞いたりして、それぞれの地域の問題点を把握して、住民と一体になった警察にするように努めている。巡回連絡によって住人の実情、家族構成、異動なども知ることができて、役所の住民基本台帳に記載されていない幽霊住民も掬《すく》い上げることができる。この巡回連絡カードを基に作成したのが住民案内簿であるが、外勤巡査が足によって調べた住民の実態であるだけに住民基本台帳よりも、実情に迫っている。  だが巡回連絡カードを提出する義務はなく、巡回の際に留守であれば、住民案内簿からも漏れる可能性がある。派出所から市役所へ回って住民基本台帳を当たったが、奥山に関する記録はなかった。  住民には個人を単位とする住民票を世帯毎に編成して住民基本台帳を作成する義務が負わされている。これに基づいて、選挙人名簿、国民健康保険、国民年金、老齢年金、老齢者リストなどの個人データが記録収集されて、住人、および国民としての諸権利や義務が派生しているのである。住民基本台帳がないということは、この地域に「住民」として住んだことがないということでもある。  念のために、戸籍簿も当たってみたが、同人の戸籍は、前橋市にはなかった。奥山謹二郎の生活の痕跡《こんせき》は、まったく残っていなかったのである。  徒労の足取りも重く市役所を出ると、ようやく夏の日も傾きかけていた。暑熱に茹ったような市街が、午後の斜光をうけて立体感を刻み、利根川の方角から涼しい風が吹き始めていた。いくらか暑さがしのぎやすくなったようである。帰りの列車まで多少時間の余裕があった。 「空っ風と雷が名物ですが、ここのところ雷もきません」  ずっと調査につき合ってくれた前橋署の谷という刑事が、額の汗を拭《ぬぐ》いながら言った。 「上野までの急行はもうありません。高崎までお送りしましょう」  谷は、棟居が時間を気にしたのを悟って言いだした。 「いえそこまでしていただいては恐縮です」  棟居が辞退するのを、 「どうぞご遠慮なく。高崎は市域のつづきのようなものです。ここはまことに不便でしてな、交通上県下の盲腸のような位置にあるのです。だいたい両毛《りようもう》線なんていう線名が猥褻《わいせつ》だとおもいませんか。高崎を人体の局所としてみると、前橋はまさに盲腸の位置にあります」  谷は豪快に笑った。パトカーに押しこめられるように乗せられて、高崎の方角へ向かって走りだしたとき、谷はふとおもいだしたように、 「そうだ、当市には空っ風と雷以外にもう一つ名物がありました。大して回り道ではないのでご案内いたしましょう。きみ、敷島《しきしま》公園へ回ってくれないか」  運転席の警官に言った。 「何ですか、もう一つの名物とは?」 「萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》です。我が前橋が生んだ偉大な詩人です。敷島公園にその詩碑があります」  谷は心もち胸をそらすようにした。パトカーは車首を北へ転じて利根川に沿って走った。利根川と広瀬川《ひろせがわ》に挟まれてテニスコート、サッカー場、総合運動場が集まっている一角に敷島公園がある。朔太郎の詩碑は、松林の蝉《せみ》時雨《しぐれ》の中にあった。碑身にはめられた銅板に、  ——わが故郷に帰れる日 汽車は烈風の中を突き行けり——「帰郷」冒頭の六行の詩文が彫られている。 「どうです、いい詩でしょう。我が前橋を象徴する実にいい詩だ。そう烈風の中の街、それがこの前橋なのです」  谷は、ついいましがた盲腸のような街だと言ったことを忘れたように胸を張った。そして詩文の続きを朗読した。どうやら諳《そら》んじているらしい。  「——嗚呼《ああ》また都を逃れ来て   何所《いずこ》の家郷に行かむとするぞ。   過去は寂寥《せきりよう》の谷に連なり   未来は絶望の岸に向へり。   砂礫《されき》のごとき人生かな!   われ既《すで》に勇気おとろへ   暗澹《あんたん》として長《とこし》なへに生きるに倦《う》みたり。   いかんぞ故郷に独り帰り   さびしくまた利根川の岸に立たんや。   汽車は曠野《こうや》を走り行き   自然の荒寥たる意志の彼岸に   人の憤怒《いきどおり》を烈しくせり」  谷は、全文を諳んじた。彼の朗詠を聞きながら、棟居は凝然と立ちつくしていた。  棟居は、奥山が前橋に一時身を寄せたとすれば、その心情が理解できるような気がした。  731部隊での経歴をひたすらに隠し、過去の重荷を引きずりながら、余生を託すべき地を探し求めてさまよい歩く彼の心境は、まさに「寂寥の谷から絶望の岸」に向かうものであったであろう。前橋に奥山の足跡はなくとも、彼がこの地へ来たことは確かなような気がした。 「さあ、まいりますか」  谷は、故郷の詩人と、好きな詩を紹介できたので満足した様子である。 [#この行2字下げ]〈作者註〉文中、「帰郷」の引用は、『鑑賞日本現代文学 第12巻 萩原朔太郎』=角川書店に拠ります。 [#改ページ]   夢の側面      1  奥山謹二郎の消息は完全に消えていた。「智恵子」とわずかな接点をもつ731部隊員の消息不明と共に、日本で客死?した中国人女性の死の真相も霧の中に杳然《ようぜん》と包み込まれようとしていた。  棟居はあきらめきれないおもいであった。奥山の出身地は山形県ということであるが、これだけの手がかりでは、雲をつかむようなものである。  万策尽きた形であったが、棟居の脳裡《のうり》にふと、731部隊を割り出した図書館の小暗い書庫のかび臭いにおいがよみがえった。そこにまだかすかな手がかりが残されている可能性におもい当たったのである。  棟居は、明治、大正、昭和の文学遺産を収集した駒場《こまば》公園内の日本近代文学館へ赴いて、高村智恵子関係のめぼしい書物を借り出した。奥山謹二郎は高村智恵子と親しかったそうである。智恵子関係の資料の中にそのことが、記述されているかもしれないと考えついたのだ。  智恵子の資料は、ほとんど光太郎の資料の中に組み込まれており、彼女単独のものは少ない。懸命に頁を繰りながら智恵子の人生の軌跡を追った。  智恵子は、明治十九年(一八八六年)五月二十日、父斉藤今朝吉(25)、母セン(19)の長女として誕生、チエと命名される。センは、安藤彦兵衛と武田ノシの子で、ノシは後に福島県|安達《あだち》郡|油井《ゆい》村字|漆原《うるしばら》町二四番地の酒造業長沼次郎と結婚、センも長沼家に養われた。センと結婚した今朝吉は長沼家に寄寓《きぐう》してその家業を助けていたと推測されている。智恵子が生まれたのも、長沼家であったと研究家によって推定されている。  利発な女性だったとみえて、明治三十六年十八歳福島高等女学校卒業式において「右総代」になっている。同年四月、家の反対を押し切って日本女子大学普通予科に進学。  明治三十九年二十一歳、美術的才能の萌芽《ほうが》を見せ、同大学秋季文芸会において、バザー、学芸会などの装飾背景を多く担当した。  明治四十年二十二歳、同大学家政学科を卒業。女子大時代の智恵子は口数が少なく孤独を愛する一面と、テニス、サイクリングなど活動的で機知に富んだ両面を併せもち、一事に熱中する性格であった。明治美術会の松井昇の助手として卒業後も母校の西洋画教室で後輩の指導にあたった。  反対する両親を説得して、東京に残り油絵の勉強をつづけることにして、谷中《やなか》の太平洋絵画研究所に通う。田舎にとうてい落ち着けない「翔《と》んでる女」だった様子である。  明治四十四年二十六歳、平塚雷鳥《ひらつからいちよう》等の提唱した女性解放運動に加わり、女性雑誌「青鞜《せいとう》」創刊号の表紙絵を画く。田村とし子と親しむ。同年十二月高村光太郎に初めて会う。  それ以後、大正三年(一九一四年)十二月二十二日二十九歳、高村光太郎と結婚するまでの曲折があり、大正八年三十四歳以降病気がちとなり、昭和二年ごろ健康回復、光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」をつくる。同三年光太郎詩「あどけない話」を書く。  昭和四年、四十四歳生家長沼家破産。健康再び低下病みがちとなる。同六年四十六歳精神分裂症の初めの徴候が顕《あら》われる。同八年八月四十八歳、光太郎、智恵子を入籍し、初めて正式の夫婦となる。病状悪化同年十一月ほとんど痴呆《ちほう》状態となる。  昭和十一年五十一歳、やつれ目立つ。紙絵をつくり始める。同十三年結核の症状悪化、紙絵制作をつづける。同年十月五日|南品川《みなみしながわ》のゼームス坂病院で没。直接の死因は粟粒《ぞくりゆう》性肺結核、五十三歳。昭和十四年二月、光太郎詩「レモン哀歌」を書く。  以上が簡単な智恵子の人生の軌跡である。彼女の人生は光太郎ぬきでは語れず、また光太郎の人生は智恵子ぬきでは語れないほどに二人の人生は密着し、一体となっていた。  彼らの研究家が——二人は「光太郎と智恵子」であってはならないし、「光太郎・智恵子」でもいけない。二人は「光太郎智恵子」なのである。——と言っていたが、まさにそこには一心同体となった男女の「たぐひなき愛」が築かれていた。  棟居は、その「光太郎智恵子」の人生の中に、奥山謹二郎の消息を求めた。智恵子が光太郎と「一体」となったのは、大正三年十二月である。それ以前の恋愛の曲折はあるが、このときから二人は夫婦として生活を始めた。  奥山は智恵子から弟のように可愛がられたという。また知り合ったのも彼が中学生のころ海へ行ったときだそうである。年齢的にもそれは智恵子の結婚前であろう。  棟居は、智恵子の結婚前、特に中学生だった奥山の「姉」にあたる年代の女子大時代の年譜を慎重に調べた。数冊の研究書の年譜をあたったが、奥山について触れたものはなかった。  奥山にとっては姉のような存在であった智恵子も、智恵子にとってはなんの印象もなかったのであろうか。徒労の色が濃くなったとき、棟居は最後の望みを託して、「智恵子紙絵」というA4判よりやや大きい本を開いた。それは智恵子が精神分裂の症状を発して入院してから昂奮《こうふん》が鎮《しず》まった折に制作した紙絵を集めた本であった。  彼女の紙絵について、高村光太郎は次のように述べている。 「精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へん喜んで其で千羽鶴を折つた。——中略——すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して、見ろといふ風情であつた。紙づつみをあけると中に色がみを鋏《はさみ》で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。——後略」  棟居には、それらの紙絵が光太郎の言うように「飛躍的に進んだ立派な芸術品」であるかどうかわからなかったが、精神病者の引き裂かれた精神が鎮静した束の間に示す、暗い閃光《せんこう》のようなものを感じた。  紙絵の中に「果実」もあった。籠《かご》に盛られた果実やリボンをかけた果実の包みの他に、メロン、ザクロ、洋ナシ、ブドウ、バナナ、ナシなどがある。レモンはなかった。解説において、「木の実」とされている中に、辛うじてレモンに似ている絵柄があった。  紙絵集の巻末にかなり詳細な智恵子の年譜が付けられていた。これまでは光太郎が中心の年譜であったが、これは知恵子中心の年譜であった。  棟居の目は、年譜を慎重に追った。ここになければ、もはや探しようがない。おそらく智恵子関係の文献は、悉《ことごと》く渉猟したはずである。  彼の目は明治四十年智恵子二十二歳の項目へ来たところでピタリと停《と》まった。  ——夏、福島県|相馬《そうま》郡|原釜《はらがま》海水浴場|金波館《きんぱかん》に滞在、米沢中学生奥山謹二郎を知り、姉弟のように文通を続ける—— 「あった」  棟居は、のどの奥で低くうめいた。遂に奥山の足跡を智恵子の生活史の中に見つけた。奥山の一方的なおもい込みではなかった。彼の存在は、智恵子の人生においても�記録�されていたのである。  ただ一行の記述であるが、それは智恵子と奥山が接点をもっていた事実を物語るものであった。奥山は、「米沢」の中学生であった。米沢へ行けば、奥山の消息がわかるかもしれない。彼の戸籍に関することであれば、同地の市役所に問い合わせるだけで判明するであろう。だが棟居は、直接その地へ赴いて、奥山の足跡を探してみたいとおもった。奥山が智恵子と出会ったという福島県の海水浴場へも行ってみたい。  明治四十年と言えば、いまから七十四年も前である。そんな昔の旅館が果たしていまでも残っているかどうか。すでに失われているとしても、せめて当時を知る古老をたずねてみたい。  棟居は、楊君里の訪問地に福島県の農村や仙台市があったことをおもいだした。福島県には、問題の海水浴場や智恵子の生家がある。また米沢は、福島市や仙台市から近い。  楊君里は、奥山謹二郎の出身地を訪ねて行った可能性もある。米沢には奥山の�関係者�もしくは、奥山本人がいたかもしれない。棟居の探索心は北の方を向いていた。 [#この行2字下げ]〈作者註〉紙絵と年譜は『智恵子紙絵』山本太郎氏編、筑摩書房刊、また同書中の北川太一氏編による「高村智恵子年譜」に基づいています。      2  棟居が奥山謹二郎の消息を追って東北へ向かったのは、八月二日である。ちょうど夏休みの�民族大移動�の最盛期と重なる最も旅行条件の悪い時期であったが、彼は待てなかった。  たかをくくって上野発の午後の常磐《じようばん》線急行に乗ったのだが、その凄《すさ》まじい混雑ぶりに肝をつぶした。車内の座席の過半数は、子供連れの母親で埋まり、残りは夏休みのレジャーに「北」へ繰り出すヤングである。社用出張風のサラリーマンや、行商風の中年男は、その間に小さくなっている。自由席車両の通路には、座席にあぶれた乗客が不機嫌な表情で立ち、彼らの間を退屈した子供たちが母親の膝《ひざ》を離れて飛びはねている。  まさに難民列車の体であったが、難民は、立っている乗客であり、席にありついた乗客は太平楽に持参した飲食物を広げたり、トランプやゲームに打ち興じたりしている。  棟居は通路に立って、もってきた「智恵子抄」を読もうかとおもったが、とうていそんな雰囲気ではなかった。窓からは熱風が吹き込み、窓外には白い積雲が林立している。  車掌が検札に来た。署で列車の時間ぎりぎりまで仕事をして、自動券売機から近距離の切符を買って列車に飛び乗った棟居が、相馬《そうま》から米沢に回る旨を告げ、精算を求めると、車掌はなにおもったのか、「どうぞこちらへ」と小声で言って車掌室へ案内してくれた。  棟居は素姓を告げたわけではないが、彼の挙措からその正体を悟った様子である。おかげでこれからの聞込みに備えて体力をセーブすることができる。  平《たいら》で子連れ母親族が大挙して下りた。林間か臨海学校のグループのようである。車掌が席が空いたことを告げに来てくれた。車掌の親切に感謝して空席へ移った。ようやく窓外の景色を見る余裕が生じた。  海岸側に松の防風林がつづき、そのかなたに白波の砕ける海岸線が見える。空は晴れていたが海は荒れ模様である。東海道沿岸に比べて風景が寂しい。海の色も濃く暗い。海岸線が列車の進行に沿ってつづく。  出発前の予報は北海道に低気圧があり、前線がゆっくり南下していることを告げている。北海道、青森、秋田、山形地方に風雨波浪注意報が出されていた。  午後五時四十分、列車は少し遅れて相馬駅に着いた。駅前広場には、どこの駅前にも共通するように個性がない。構内タクシーが客待ちをしており、マイカーが溢《あふ》れている。駅前に下り立つと、暑熱が全身を包む。傾きかけた夕日の中に市街も海も焙《あぶ》り立てられているようである。目的地の一つに下り立ったものの、宿が予約してあるわけではない。駅舎を出て左手に観光案内所があったが、すでに「終業」したらしく窓にカーテンが下りている。  途方にくれて茫然《ぼうぜん》と立っている棟居を尻目にサーファールックの若者や娘が一団となって、宿からの迎えらしいマイクロバスに乗り込んで行く。原色のTシャツと短パン、青春の盛りの充実した身体、明るい屈託のない笑い声、彼らの身辺だけが眩《まぶ》しい輝きに充ちて忍び寄る夕闇《ゆうやみ》をはね返しているようであった。  相馬署に�挨拶《あいさつ》�に寄れば、どこか宿舎を世話してくれるであろうが、どうも気が進まない。挨拶するにしても帰途にしたい。  ほとんど手弁当に近い捜査で、他県警察を煩わすのは憚《はばか》られる。自他殺両面の構えということで始めた捜査であるが、自殺説が有力となり、捜査本部とは名ばかりになっている。反面、解散寸前の息も絶えだえの本部であるから�準手弁当捜査�などという勝手な真似ができるのである。  棟居が思案顔で立っていると、タクシーが寄って来て、 「お客さん、原釜《はらがま》へ行っかい?」と運転手が窓から顔を出して声をかけてきた。 「どこか安い民宿はないかな」  棟居が答えると、 「今時、ちょっこら来ても、民宿などとてもだめだっぺ。おれが知ってる宿さ行っかい」 「あまり高い宿じゃ困るが」 「老舗《しにせ》の旅館だからよ。民宿よりは少し高いけど。そん代り、サービスもお膳《ぜん》(食事)もいいよ」  棟居は束の間思案したが、おもいきって運転手の誘いに乗ることにした。金波館が相馬市の電話帳に残っていないことは、すでに調べてある。金波館はとうに営業を止めた模様である。となると、民宿よりも老舗の�同業者�のほうが、その消息が得やすいだろうと判断したからである。  車は踏切りを渡ると、海の方角へ向かって走りだした。すぐに家並が切れて、海沿いの平坦地《へいたんち》になった。右手に低い丘陵が点在し、左手に干拓地らしい水田が見える。市街は線路の山側に発達しているらしい。この相馬は、野馬追《のまお》いや民謡のふるさととして有名であるが、いま棟居の関心はそれらにはない。  地図で見ると相馬の市域は山間地と海に近い平坦地が相半ばしている。市街地は海岸平野が山地に尽きるあたり、宇田川《うだがわ》の北岸に発達している。海岸の地形に特徴があり、松川浦《まつかわうら》をかかえ込んで約五キロの細長い廊下のような大州浜が北へまっすぐに伸び、鵜《う》の尾岬《おさき》で直角に左(西)へ鉤状《かぎじよう》に曲る。幅百メートル程度の海峡を隔てて牛鼻毛《うしはなげ》の半島が接している。  原釜海水浴場は牛鼻毛の北側に外洋に面して遠浅の浜を伸ばしている。地元の呼込み文句によれば、東北随一の海水浴場ということである。  平凡な海岸平野の中を車は十分ほど坦々《たんたん》と走って海浜に近いとある旅館の前に停《と》まった。予想していた以上に立派な構えであり、棟居は相当の予算超過を覚悟した。原釜随一の老舗ということであるが、建物は近代的で新しい。新建材をふんだんに使ったような明るい建物であり、玄関の木組も真新しい。  フロントに人影がないので、大声で案内を乞うと、太った女将然《おかみぜん》とした女が現われた。  タクシーの運転手に紹介されたと告げると、二階の二間つづきの部屋に通された。窓を開くと居ながらにして海が見えた。日没直前の残光をうけて、海は赧々《あかあか》と染色されている。西の空の残照が東方の水平線に湧き立つ積雲を輝かせて、むしろ東の方が明るいかのような天然の間接照明効果を出している。  棟居は、海岸が見たくなった。七十四年前、智恵子の遊んだ海の様を、昏《く》れる直前に確かめてみたい。明日になれば天候が崩れて、夏の海の感触が得られないかもしれない。  ちょうど、茶道具一式を運んで来た若い女中に海を見に行くと伝えると、表情を改めて、 「海が荒れでっから、浜辺で高波に巻き込まれないように注意して」と言った。  宿から十分ほど歩くと海岸に出た。浜は明るかったが、東方の雲の頭がうす赤く染まり、水平線が蒼茫《そうぼう》と昏《く》れかけていた。風に潮の香りが乗っている。  海岸には不規則な波が砕けている。浜辺に沿って一直線にロープが張られ、それにつかまりながら疎《まば》らな海水浴客が波とたわむれている。若者たちがサーフボードをかかえて波に乗ろうとしているが、波が不規則に押し寄せるのでタイミングをつかめない。港の埠頭《ふとう》に妨げられて反転した波と正面から押し寄せる波が交わるとき、予想外の大波が生じる。砂まじりの灰色に濁った波で、砂浜は黒い。屈曲した海岸線をテトラポットが無作法に仕切っている。  海浜にトタン屋根にヨシズ張りの海の家が数軒並んでいるだけの荒涼とした海水浴場である。松など一本も見当たらない。規模も小さい。海の家の裏手に山と積まれた空きびん、空きかん、その他さまざまなゴミが荒涼とした風景をうながしている。「東北一」の惹句とはだいぶ隔りがある。  棟居は落胆した。智恵子と奥山が「夏の日のおもいで」を刻んだ青春の海浜としては、あまりにも殺風景であった。白砂青松どころか、�黒砂無松�の荒れ果てた浜辺である。居合わせた土地の人数人に、金波館について聞いてみたが、だれも知らない。  宿へ帰って来ると、ちょうど夕食を運んで来た女中が「どうでした」と聞いた。 「いや、がっかりしたよ。東北随一の海水浴場と聞いて来たんだが、だいぶ看板に偽りがあるなあ」  棟居が正直な感想をもらすと、 「昔は本当にきれいな浜だった。砂も白かったし、樹齢何百年という黒松の並木もあったし、その松並木を見るためにわざわざ来られたお客さんもあったほどで」 「それがどうして、あんなに荒れてしまったんだね」 「港ができたせいだよ。いまの海水浴場は本当の海水浴場じゃありやせん。港に削られて波の荒い隅っこの方へおしやられてしまったんだ。浜の砂が黒かっぺ。あれはソ連からの外材積載船の油と廃材で汚れてしまったんだ。おまけに港の防波堤や埠頭を沖へ伸ばしたために波の動きが変って、遠浅の砂をどんどん沖の方へ削り取っていっちまった。昔の原釜海水浴場はとうに死んじゃったんです。昔の浜を知っている私らはいまの浜で泳ぐ気はしねえ。お客さんは泳ぎに来たようじゃないから話すけど。でもお客さんは泳ぎに来たのでなければ、何しにきなさったんですか。馬追い祭りは終っちゃったどいうのに」  話し好きらしい女中は膳立てをしながらしゃべった。彼女の口の滑りのよいことは、棟居の目的には都合がよかった。  ともあれ、智恵子と奥山のおもいでの海岸は、自然破壊の犠牲にされたことがわかった。 「あなたはこの土地の人なの」 「はい。牛鼻毛に家があります」 「それじゃあ昔、この海岸に金波館という旅館があったのを知らないかな」  棟居は、膳の上に並べられる料理を視野の端におきながら、そろりと聞込みの手を伸ばした。 「きんぱ館なんて旅館聞だごともねえ」 「いまじゃあない。昔のことだよ」 「昔っていつごろのごと?」 「明治四十年ごろだよ」 「明治!? いやだあよ、私のお父さんもお母さんも昭和の生まれですよう」  女中はけたたましい笑い声をたてた。 「そうだなあ、ちょっと大昔すぎたかなあ」  食膳には、鯛《たい》の塩焼き、イカの刺身、生ウニのわさび和え、ハモの蒲焼《かばや》き、海老《えび》の天ぷら、海草サラダ、白魚の汁物など海の幸を中心とした料理が、膳からはみ出さんばかり並べられた。海水浴場には幻滅したが、「膳はいい」と言った運転手の言葉に偽りはなかった。棟居の腹の虫が盛大に鳴いた。 「そうだ、きっとおかみさんなら知っているかもしんね」  女中は茶碗《ちやわん》に飯を盛りながら言った。 「それでは食事がすんだら、おかみさんに、私が聞きたいことがあると言ってくれないかな」  いまはまず、腹の虫を黙らせることが先決であると判断した。 「金波館は焼けちまっていまはなんにも残っていませんよ」 「焼けた!」  女将の言葉に棟居は一瞬言葉を失った。 「私もまだ当時子供でよく憶《おぼ》えていませんが、昭和十九年の冬、たしか二月一日と聞いていますけど、原釜に大火があって二百軒ぐらいが焼けたんです。私の家は危うく類焼を免れましたが、そのとき金波館という旅館が焼けたと死んだ父親から聞いたことがあります」 「金波館の家の人は、その後どうなったかわかりませんか」 「さあ、なにぶん古いことだからなあ、お客さんどうしてそんなこと調べるのですか」  女将の目が詮索《せんさく》の光を浮かべた。 「実は私はこういう者なのだが、ある事件の参考に調べているのです」  棟居は手帳を示して、身分を明らかにした。宿帳は女中がもってきていたが、まだ記入していなかった。 「あれまあ、東京の刑事さんで」  女将の顔色が改まって、 「東京から刑事さんが来られたんでは、調べてあげますべ。そのころのことを知っている年寄りも何人かいますから」  女将は俄然《がぜん》協力的になった。地元の女将が調べてくれるのであれば、これに越したことはない。 「まあ今夜はゆっくり寝《やす》んでください。明日の朝までには調べておきます」  女将は最敬礼をして出て行った。  翌朝、係りの女中といっしょに朝食を運んで来た女将は、 「あらかたわかりましたよ」と愛想のよい声で言った。昨夜あれからあちこちに問い合わせてくれた様子である。女将の話を要約すると、  金波館は、現在の原釜郵便局の位置にあった。隣りに松風館という小さな旅館があり、二軒が並んでいた。  昭和十九年二月一日未明、当時の船大工の作業場から出火、折からの強風に煽《あお》られて、火は原釜の集落のほとんど全戸をなめつくした。大火の本当の原因は、船大工作業場で櫂《かい》を焙《あぶ》って曲げる作業をした後の火の不始末である。ところが船大工側は子供の火遊びだと強弁し、原因と責任を曖昧《あいまい》にした。その船大工が現在、市の政治ボスになっている。  金波館がどんな建物であったか、写真等が焼失して現存していないので不明であるが、同館の経営者(すでに物故)の息子が原釜郵便局長なので、若干の回想を得られるかもしれない。——ということである。  金波館の子孫の居所がわかっただけでも収穫である。大いに気をよくして朝食を摂《と》った後、郵便局へ向かう。海岸に沿って郵便局のある相馬港の方角へ歩く。  前線の南下が遅れているのか、空はよく晴れている。海は相変らず波が高いが、海水浴場には昨日より客が多い。家族連れが波打際で波とたわむれ、若者がサーフィンに興じている。若い娘たちの張り切った姿態が眩《まぶ》しく、カラフルな水着が海によく映える。  棟居は、自分も一泳ぎしたくなった誘惑を怺《こら》えて、郵便局を探した。  原釜郵便局は相馬港のほぼ中心地にある。途中に笠岩《かさいわ》公園という表示の出ているコンクリートで固めた人工岬がある。岩壁にロープが張られてベンチが十五脚ほど置かれている。背後が小さな松林になっており、ビニールハウスに囲われた花壇がある。その中に肉厚な花弁の白い縁取りをした真っ赤な花が咲いていた。盛夏にふさわしい派手な花である。  アイスクリーム売りの中年女が近寄って来た。一個買って、昔の海水浴場の位置を聞くと、 「はあ、昔はこのあたりが最高の泳ぎ場所でえ、ずっと遠浅でアサリも取れっし、いい浜辺だったしなあ、それが港ができでがら、みんなムダグダになっちまっちゃった」  アイスクリーム売りは埠頭に鎌首をもたげているクレーンの方を忌々しそうに見た。  岬の先端に立つと、砕ける波の飛沫《ひまつ》が身体にかかった。波頭が灰白色に濁っている。だが海水浴客は、その先にある青い沖へ出て泳ぐことを禁止されている。  アイスクリームを舐《な》め終ったところで原釜郵便局の前へ出た。表示がなければ普通の民家と見まちがうような建物である。  郵便局長は五十代半ばのいかつい大男である。白髪まじりの剛毛が逆立ち、目つきが険しい。一見して取りつき難そうである。  棟居が名刺を差し出して来意を告げると、局長は名刺を手中に玩《もてあそ》びながら、 「警察が金波館のことをなんで調べるんで?」  ギロリと棟居の方をにらんだ。案の定なかなかの難物らしい。 「実はですな、詩人かつ彫刻家の高村光太郎をご存知でしょう」  棟居はできるだけ低姿勢に出た。 「知んねえな」 「その奥さんの智恵子という人が昔金波館に泊まっているのですが」 「知んねえ、知んねえ。おれはなにも知んねえぞ」  局長は頑なに首を振った。棟居は、智恵子にゆかりのある金波館の子孫が光太郎も智恵子も知らないという事実に驚いた。あるいはとぼけているのかもしれない。しかしなぜとぼけるのか。 「せめて金波館の様子を聞かせていただけませんか。お父さんが経営されていたとうかがいましたが」 「そんたらごど、どっから聞いた」  局長の目がますます険しくなった。 「年寄りの方が憶えておられて……」 「帰《けえ》ってくれ。いま公務中だ。答える義務はねえ」 「べつにお答えいただいてもさしつかえがあるようなこととはおもえませんがね。それともなにか話したくないご事情でもあるのですか」 「ここは郵便局だよ。郵便の問い合わせなら答える義務があっけどよう、おれの家のごどなど教える筋合いはねえ」 「せめてなぜ調べているのか理由ぐらい聞いてもいいでしょう」  棟居も少しむっとした。 「その必要はねえ、とにかく帰《けえ》ってくれ。帰《けえ》らねえと警察を……」  と言いかけて、棟居の素姓をおもいだしたらしく、口をへの字に結んで、名刺をポイと投げ返した。取りつくしまもなかった。  彼がなぜ自分の家系や父祖の家業について質《たず》ねられるのを嫌うのかわからない。郵便局から退散したものの、そのまま帰る気にもなれず、付近の民家に一軒ずつ聞込みをした。だがだれも知る者がない。ほとんどの住民が大火以後この地に住みついた人たちなので、大火以前のことは知らないのである。  ようやく煙草屋《たばこや》の老女が昔からの住人であることを聞きだした。その店先で煮しめたような色のブラウスの襟《えり》をはだけて、萎《しな》びた胸を出した老女が漬け物を盛った鉢を前にして、歯のない口をもぐもぐさせている。 「きんば[#「きんば」に傍点]館だど? 知んね、そっだらごど調べて何する」  老女も猜疑《さいぎ》の視線を向けた。棟居が局長に向けた質問を反復すると、 「たがむらこうだろうだど、聞いだごどもねえ。しじんだど(死人と釈《と》ったらしい)。気色悪いごど。海水浴? 女が水浴びなどするもんでねえ」  これは局長以上に難物であった。どうもこの土地の住人気質は排他的なようである。港から宿の方へ引き返して来ると、日射しはさらに強まり、砂浜は灼《や》けていた。汚れた海ながら水の中に入っている人々が羨《うらやま》しい。  汗を拭《ふ》き拭き旅館の玄関へ入ると、女将が含み笑いしながら出迎えて、 「その様子じゃ追っ返されたね。あの局長は偏屈で通ってるもんね」と言った。  結局また女将が、当時を知る元町会議員、元区長、元消防署長、観光協会、市の社会教育課などに次々に電話して、面会の段取りをつけてくれた。その日一日、棟居はこれらの人々を原釜地区から相馬市域へ訪ね歩いた。  そしてその日の夕方になって、金波館に関して若干のことがわかった。古老や事情通の話を総合すると、——金波館は、原釜郵便局裏の局長の自宅あたりにあった。古びたかや葺《ぶ》きの平家で、三つの部屋があり、旅館というよりは、民家をそのまま転用したようなものだった。客は自炊しながら保養をする。学生も多かった。金波館のすぐ横に船着場があって海からの水路が入り、一人乗りの和船が出入りしていた。——  結局わかったことはこれだけであった。長沼智恵子と奥山謹二郎について知る者はいなかった。会ったすべての人間が智恵子と金波館との関わりについて話すと、驚いた表情をした。  相馬市図書館で見つけた「相馬市史」の消防の項目に次のように記述されていたのが、棟居の脳裡《のうり》に留まった。 「——昭和十九(一九四四)年二月一日北原釜の大火は百八十六戸を焼き、千八十七の罹災者《りさいしや》があった。この時も消防団はめざましい活動ぶりを見せた」      3  翌日朝、二泊した原釜の宿を出て、タクシーで相馬駅へ向かった。玄関まで女将と係りの女中が送ってくれる。空は相変らずよく晴れている。前線は北の方へはね飛ばされてしまったらしい。  次の目的地は米沢である。原釜に智恵子と奥山の足跡を見つけられなかったので、米沢が最後の望みを託した土地になった。手がかりは「米沢の中学生」だけである。  だが米沢には強力な味方がいた。出発に先立って同市の社会教育課に問い合わせたところ、高村光太郎と智恵子について研究している郷土史家がおり、同人の協力を取り付けられることになったのである。  まず相馬市から阿武隈《あぶくま》山地を分けて福島へ抜ける。福島県では、海岸地方を「浜通り」、阿武隈山地の西側、阿武隈川沿いの低地を「中通り」と呼んでいる。相馬からバスで約二時間の行程である。市街を抜けるとバスは間もなく山間部に入った。道は舗装されているが、一車線幅しかない。杉、檜《ひのき》のうっそうたる森林の間を這《は》うようにしてバスは激しい起伏を上下する。  小さな峠を越えると山間におき忘れられたような集落があり、火の見|櫓《やぐら》、神社、木造の小学校の建物などが視野に入る。冬の積雪の深さを偲《しの》ばせて、各戸の煙突がひょろ長い。バスが停まる都度乗客が少しずつ交代する。菖蒲沢、西玉野、小市郎、文字摺、行合道などの鄙《ひな》びた駅名を見ているうちに、いつの間にかうつらうつらとしていた。車窓に緑が迫り、まどろみの夢も緑に染まるようである。  福島から列車に乗り換え、米沢に到着したのは、十七時四十四分である。プラットフォームに下り立つと、爽《さわ》やかな涼気に全身を包まれた。暑熱に焦げていた相馬や福島から奥羽山脈を横切って山峡の城下町米沢へ来た身には、その清涼な空気が快い。空の色が深く、すでに秋色を感じさせる。改札口を出て大きく息を吸った。  東方に飯豊《いいで》連峰、西に蔵王《ざおう》、南に磐梯山《ばんだいさん》をひかえて、市域のどこからも山が見える。諸事がさつであった原釜に比べて、伝統の重さをもった落ち着きとうるおいがある街である。 「棟居さんですか」  突然、声をかけられて、その方角を向くと、四十代後半と六十前後と見える二人の朴訥《ぼくとつ》そうな男がにこにこ笑いかけていた。棟居がうなずくと、 「社会教育課の遠藤と申します。こちらは先日お話し申しました矢部先生です」  と丁寧に名乗って頭を下げた。 「わざわざお出迎えを、これはまことにはやなんとも」  まったく出迎えを予期していなかった棟居は恐縮した。もともとこちらの用事で一方的に押しかけたことである。 「私共でお役に立つことがあれば喜んでご協力します。暑い中を遠路はるばるお越しいただきまして恐縮しております。今日は課長もお出迎えに上がる予定だったのですが、よんどころない用事で来られなくなりまして呉々もよろしくとのことでございました」  まだこの上に課長に来られては、身の置き所がなくなってしまう。 「あのう、ホテルを予約しておきましたので」  駅前には車が待っていた。原釜とは天地のちがいである。こうまでされては辞退できない。棟居は先方の親切をうけることにした。  さすがに上杉景勝より連綿とつづいた城下町だけあって、武家屋敷、古社寺、土塁、昔ながらの商家の建物など、由緒あるおもかげを至る所に留めている。繁華街には近代的デパートやビルディングがあるが、街の総体の印象は質素である。  これは米沢藩が会津百二十万石から米沢三十万石へ、さらに十五万石へ減封されながら家臣を召しはなさずに火の車の台所をやりくりしてきた諸事節倹の藩風と無関係ではあるまい。  ホテルは米沢の繁華街内|東町《ひがしまち》五丁目の一角にあった。ここは米沢|城址《じようし》上杉神社の東北にあたる。ホテルのレストランで改めて初対面の挨拶を交す。  矢部は、山形県下のある高等学校長を最後に、現在市の教育委員会にあって同市の文化財保護関係の仕事をしているということである。  教育畑一筋に勤め上げた説教くささはなく、穏やかな話しぶりと温和な目の光に人柄がにじんでいる。食事をしながら矢部の話を聞くことにした。矢部は、今日は疲れているだろうから、明日改めて出向くと言うのを、棟居が是非今夜聞かせてくれと頼み込んだのである。棟居の来意はあらかた伝えてある。 「金波館で智恵子が知り合ったという奥山謹二郎に目を着けられたと聞いたときは、さすがだとおもいましたよ。実は、この奥山謹二郎は、光太郎智恵子の研究家の間でも謎《なぞ》の人物とされているのです」  矢部は淡々と語りだした。 「謎の人物と言いますと?」 「年譜には、明治四十年夏、原釜海水浴場金波館に滞在中米沢中学生奥山謹二郎を知り、姉弟のような文通をすると一行で書かれてありますが、当時米沢の中学と言えば興譲館《こうじようかん》中学しかなかったのです。この中学は安永四年(一七七六年)藩校として発足したもので、智恵子年譜の『中学生』に該当する明治三十七年から同四十五年ごろまでの奥山姓の同窓会名簿を調べても謹二郎という名前はありません」 「奥山謹二郎がいない!」  棟居は身を乗り出した。 「いちおう参考までに、その写しをもってまいりました」  矢部はメモを差し出した。その紙片には次の名前が記入されてあった。  ——明治三十七年 奥山昇(以下奥山を略す)    同 三十八年 竹之助、虎雄、正章、義正    同 三十九年 亮蔵    同 四十年 十郎、鷲雄    同 四十一年 信一、久吾、賢五郎、彦太郎    同 四十二年 ナシ    同 四十三年 吉五郎、修一    同 四十四年 大夫    同 四十五年 敬一郎、辰司—— 「いちおう念のために大正五年まで当ってみましたが、謹二郎はおりません」  矢部は、棟居がメモを見終ってからつけ加えた。 「すると奥山謹二郎は実在しなかったのでしょうか」  徒労感が心身の深い所から発して全身にゆっくりと拡がっていくのがわかった。 「私は実在したとおもっています。多くの研究家が奥山謹二郎は実在の人物と見ております」 「彼はどこにいたのですか」 「さあそこですがね、明治の女がですな、海へ遊びに来たということが、今風に言えば大変翔んでいるとお考えになりませんか」  棟居は原釜の煙草屋の老婆の言葉をおもいだしながらうなずいた。棟居の質問に対して老婆は、「女が水浴びなどするもんでねえ」と言った。 「それが海へ来て男と知り合ったのです。�姉弟のような文通�、これも曲者です。男と女の間で手紙のやり取りとなれば、これは恋文です。そして果たして文通だけに留まれたか。だいたい恋人関係というものは同年輩、いや女が多少年下でも姉弟のようなムードになるものなのです。智恵子は平塚雷鳥が始めた女性の啓蒙《けいもう》運動�青鞜�のシンパでした。青鞜第一号の表紙を智恵子が描いたことはよく知られています。雷鳥女史と共に吉原《よしわら》へ行って女郎を上げたり、テニスをやったり、馬や自転車に乗ったり、当時としては大変新しい女だったわけです。それらのプレイの一つに海水浴があったのだとおもいます。ここで光太郎が智恵子と偶然再会した場所がどこか注目してください。千葉県の犬吠埼《いぬぼうざき》です。ここで偶然とは言いながら光太郎は浴室の智恵子の裸身を見てしまいます。やがて智恵子のほうから熱烈なラブレターが送られてきて、光太郎は一方的に押しまくられます。光太郎は何度も自制するのですが、彼女の熱っぽさにほだされてしまうのです。原釜といい、犬吠埼といい、智恵子は海が好きだった。智恵子抄によって、彼女の実像はボカされ、美化されていますが、私は彼女の実体は自由奔放、遊び好きのプレイガールではなかったかとおもうのです。資料を具《つぶさ》に検討していると、そういう智恵子像が浮かび上がってくるのですよ。ここに智恵子の実像を示唆する文章があります」矢部は携えてきた古い本のある頁を開いて棟居に示した。  ——「智恵子抄」論(吉本隆明著『高村光太郎』春秋社)   女の誇《プライド》に生き度《た》いとか何とか云つて威張つてゐる女、節操の開放とか何とか云つて論じ立てる女、之《こ》れが当世社会の耳目を集めて居る彼の新しい女である。長沼智恵子は矢張りさうした偉い考へをもつた青鞜社同人の一人である。女子大学を出てから太平洋画会の研究所に入つたのが四十二年で昨年|辺迄《あたりまで》同所に通つて居た。見た所|沈着《おちつ》いた静かな態度物言ひをする女であるがイザとなれば大《おおい》に論じ男だからとて容捨はしない。研究所の男子の群に交つて画を描いて居ても人見しりするやうな事は断じてなく話しかけられても気に喰《く》はぬ男なら返辞は愚か見返りもしない。其代《そのかわ》り柳さんであらうが坂本さんであらうが写生旅行へ行かうと云へば怯《お》めず憶せず同道する。それで居て滅多に間違ひはない相《そう》だ。だが、中村|彝《つね》氏とは盛んにローマンスがあつたもので艶書の往復も可成《かな》りあつたと伝へられて居る。現に氏が重い病気の為めに入院した時の如き智恵子が見舞ひに行つたとて非常な評判になつた事なぞもある。それが何方《どちら》から飽いたのか飽かれたのか今では鼬《いたち》の道で全然の他人になつて了《しまつ》て居る。聞けば中村氏の方では「あんな締りのない婦《おんな》は嫌になつた」と云つてゐる相《そう》だが智恵子を放れた中村氏は目下所定めず放浪的な旅行をして居るので之を尋ねる|其(〈ママ〉)画家は大いに困つて居ると云ふ。更らに智恵子の方は近頃に至つて高村光太郎氏と大いに意気相投合して二人は結婚するのではないかと迄流言《までいわ》れたが智恵子は却々《なかなか》もつて結婚なぞする模様はない。矢つ張り友人関係の気分を心ゆく許《ばか》り味《あじわ》はうとして居る。而《しこう》して青鞜社の講演会なぞも鴛鴦《えんおう》の如《よ》うに連れ立つて行けば旅行にも一緒に出て居る。茲暫《ここしばら》くは公私内外一致の行動を取るのださうな。(「国民新聞」大正二年九月十日「女教師」〈五〉)—— 「それでは奥山謹二郎は?」  棟居は本の頁から矢部に目を転じた。 「つまり智恵子の遊び相手の一人で、それも中学生ではなかった」  それは神谷から聞いた奥山の年齢とは異なるが、神谷の言葉が正確であるかどうかわからない。 「それをなぜ米沢の中学生などと……?」 「智恵子抄の純粋イメージからも智恵子に恋人がいてはまずいからですよ。光太郎智恵子の『たぐひなき夢をきづく』ためには、智恵子の奔放な過去は糊塗《こと》しなければなりませんでした」  初めて聞く大胆な仮説であった。棟居が渉猟した資料にはそのような説はなかった。棟居の肚裡《とり》を見透したかのように矢部は言葉をつづけた。 「資料の中にも、智恵子の自由奔放な性格をうかがわせるような個所はふんだんに見出せます。ただ露骨に言ってないだけで、巧妙に暗示しています。智恵子の夜の技巧が抜群だったことは光太郎の詩にはっきりとうたわれています。たとえば智恵子抄に収められた『愛の嘆美』です。   底の知れない肉体の欲は   あげ潮どきのおそろしいちから——   なほも燃え立つ汗ばんだ火に   火龍《サラマンドラ》はてんてんと躍る(後略)  これは性の歓喜そのものです」 「男の年齢を中学生に引き下げたのはわかりますが、なぜ米沢にしたのでしょうか」  その米沢のためにここまで引っ張って来られたのである。 「私が推理するに奥山は東京辺の大学生で、米沢に親戚《しんせき》か親しい人間が住んでいたのだとおもいます。奥山という姓は山形県に多いですからね、父親か祖父がこの地の出身なのでしょう」 「実は私の方も市民課をあたって奥山謹二郎の戸籍を調べたのですが、該当する戸籍を見つけられませんでした」  遠藤が遠慮がちに口をはさんだ。これで、奥山謹二郎の生活史が米沢にないことが確定したのである。 「ともかく智恵子という女性には生来的に異常なものがあったようです。光太郎自身、彼女の異常性について、  ——単純|真摯《しんし》な性格で心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》へて居り——  ——宿命的に持つてゐた精神上の素質——  ——いはば四六時中張り切つてゐた弦のやうなものでその極度の緊張に堪へられず、脳細胞が破れた——  ——それほど隔絶的に此の世の空気と違つた世界の中に生きてゐた——  ——私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。——  と書いています。智恵子の発狂は巷間《こうかん》文学史家が伝えているように実家の破産や自分の画業の行きづまりと光太郎に対する純愛との葛藤《かつとう》の末ではないと、私は考えています。智恵子が脳に変調をきたしたとき、医者は光太郎に外国である病気の感染をうけたことはないかと質ねました。なぜ医者はそんな質問をしたのでしょうか。つまり医者は智恵子の発狂を先天的な病気の発症とは考えていなかったのです。医者が細菌感染を疑わざるを得ないような状況あるいは事実があったからではないでしょうか。光太郎は智恵子の発病に対して明らかに不審を抱いています。なぜ彼女が発狂したのか。原因を家系上の遺伝や脳の器質的欠陥などさまざまに探し求め、結局、芸術と自分との純愛の矛盾葛藤に結論を求めて、無理に自分を納得させています。たしかに芸術と愛の葛藤とは美しい原因です。しかし医学的見地から見ればまったく曖昧な心情的原因です。資料を詳細に読むと、医者は明らかに細菌感染を疑っていることがわかります」 「細菌感染というと、梅毒とか」 「初めは梅毒を考えたようですが、智恵子の死因は粟粒性結核ですから、なにかの悪い細菌が脳に上ったと考えたのではないでしょうか。智恵子に対して施された治療法というのが高熱を促して細菌を殺すという一風変った方法だったのです」  矢部の話は、智恵子抄における一組の男女の全《まつた》き愛の世界とは異次元の宇宙に成立するようであった。 「智恵子抄はたしかに美しい。しかし美しすぎて、人間の世界からかけ離れています。人間の情念や、性欲や疑惑や嫉妬《しつと》や体臭やその他すべてのどろどろした生臭い不純物を芸術によって濾過《ろか》し、この世のものならぬ美しさに昇華しています。芸術とはまさにそのようなものです。しかし芸術の昇華作用は、真実と実体をデフォルメする危険をもっています。そのために正確な姿が誤り伝えられてしまいます。光太郎の詩の中にあります。——おんなが付属品をだんだん棄てると どうしてこんなにきれいになるのか 年で洗われたあなたのからだは 無辺際《むへんざい》を飛ぶ天の金属——これは智恵子抄の中の智恵子ではあっても、人間としての智恵子ではありません。  研究史家も——光太郎の内面での「智恵子」像が初期の出会いの昔に回帰し、固定して永遠化されたことを示している。もはや現実の拘束を持たない理想像としてである。——と書いています。  智恵子の実体は、光太郎の弟の高村豊周が——その頃は例の『青鞜』によった女の新しい運動が勃興《ぼつこう》した時で、女が吉原に行って、女郎をあげたり、鴻《こう》の巣《す》で五色の酒を飲んだり、当時の常識を無視する行動が目について批難の方が多かった。智恵子もそういう仲間にいたわけで云々——と書いているようにかなり翔んでいた女だったのです。女性の場合、脳梅とか結核性脳膜炎(髄膜炎《ずいまくえん》)とかが頭に上るのは、更年期です。じわじわと上ってきて最後には頭にきます。光太郎がなぜ智恵子の病床にしばしばレモンをもって行ったかわかりますか」  突然、レモンが出てきたので、棟居は緊張した。 「レモンには、解熱と発汗利尿の効果があるのです。智恵子は高熱を発していました。身体を高熱にして細菌を殺すという治療法を施されている中で、智恵子はレモンを欲しがったのだとおもいます。これがレモン哀歌によって芸術の素材にされてしまった。だいたいレモンなんて生《な》まで齧《かじ》るものじゃありません。智恵子抄は、発狂した妻を美化するための死化粧だったのです。光太郎という類《たぐい》稀な詩人のロマンチシズムと澄みきった詩情や卓抜な技巧によって、その底にある人間の不信や疑惑や嫉妬《しつと》を見逃してはいけないとおもうのです」  矢部の説は、智恵子抄のイメージを損なうと言うより、その世界にまったく別の照射を浴びせるものであった。「隔絶的に此の世の空気と違った世界」に人間の息吹を吹き込んだのである。棟居は矢部の話に引き込まれて、しばしば食事をする手を休めた。  だが矢部説によっても奥山謹二郎の正体もその消息も依然として不明であった。 [#改ページ]   老弟の純愛      1  福島と米沢の探索行から帰ってしばらく後、暦《こよみ》が八月の下旬にかかったとき棟居は、意外な人物から手紙をもらった。封書の差出人名「神谷勝文」、熱海の消印を見て、元731部隊員神谷老人の風化したような顔をおもいだした。急いで封を切ると、枯れた達筆で次のように書かれてあった。   ——過日は陋屋《ろうおく》までお運びいただきながらなんのおもてなしもできず失礼いたしました。さて、奥山謹二郎氏の住所は判明いたしましたでしょうか。もし最近の奥山氏の居所が確認できましたならば、老生にもご一報くだされば幸甚に存じます。   ところで、貴殿が来熱されてより、昔のことがあれこれとおもい出されて、古い手帳や覚え書きなどを整理いたしておりましたところ、左記の句を発見いたしました。これは奥山氏の作で数年前に「房友」に投稿せしところ、あまりに生ま生ましいという理由によりボツにされた死句だそうでございます。奥山氏はせっかく往時のおもいをこめての句作故、私に読んでもらいたいということで送ってきたものです。いずれも731部隊に身を置いた者であれば、実感の迫る、血の滴るような句であります。なにかのご参考になればと念じて、貴殿に模写してお送り申し上げます。   凍傷試 描く画家の手 おののける   少年の 内臓跳ねし 凍《い》てバケツ   解剖台 手と足のみが 残り凍《い》て   生体の 肉裂きしメス 血で凍り   炎天下 引きずる鎖音 ビルが哭《な》く   反帝を 壁に血で染め マルタ灼け   油照り 荼毘《だび》のマルタの 肉つかむ   十字架に 感染の蚤《のみ》 襲いせむ   我を捨て 腐りし鳥の 行方かな   青春の グロキシニアを 見届けむ [#地付き]——以上。    ご多忙のお仕事柄故、なにとぞご自愛くださいますよう。 [#地付き]敬具    神谷の手紙を読んで、棟居は衝撃をうけた。たしかにボツにされた理由がわかるような気がした。棟居は731の隊員ではないが、この一連の句の生ま生ましさは身に迫る。  特に「生体の 肉裂きしメス 血で凍り」の句は、古館豊明の「深夜の出棺」中の「生体を 裂きしメスにて 檸檬《レモン》割る」と、発想は同じである。あるいは古館が奥山の句を見て、それを模したのかもしれない。  さらに、「少年の 内臓跳ねし 凍てバケツ」は酸鼻である。生体実験で生きたまま解剖された少年の内臓が、バケツの中に盛られてピクピク動いている様が五七五の句の中に表現されている。またその後の「解剖台 手と足のみが 残り凍て」は、内臓は標本として保存されたが、手足のみ残されている様子を句にしたものであろう。  送られてきた十句を繰り返し読んで吟味している間に、棟居は首を傾げた。前の八句はいずれも731に関する句のようであるが、最後の二句の意味がわからない。そしてその二句が、前八句の句境からひどく遊離しているような気がするのである。二句の句意はよくつかめないながらも、生体実験に関する句ではないようである。  そればかりでなく、棟居はその二句にうすい記憶があるようにおもえるのである。どこかで以前使われていた言葉に出会ったような気がする。最も引っかかるのは「グロキシニア」であり、次いで「腐りし鳥」である。この二つの言葉は何を意味しているのか。  棟居は思考を集中した。この二句はなにかの象徴詩であろう。それは何を象徴しようとしているのか。最後の句に「青春」という言葉があるが、作者は、その句に自分の青春を託したかったのか。すると「鳥」は女性を指しているのであろうか。またグロキシニアとは何か。  どこかで出会っている。それもつい最近のことである。醗酵《はつこう》した脳裡《のうり》に、日本近代文学館の小暗い資料室の光景が浮かび上がった。  棟居は、その二つの句が最近渉猟した高村智恵子、光太郎の資料に関連しているのではないかと考えた。  棟居は、再度|駒場《こまば》公園へ出かけていった。先日と同じ資料の閲覧を申し込む。まず最初に、智恵子の年譜を開いた。目指す個所は間もなく見つかった。  ——明治四十五年、大正元年、智恵子二十七歳六月、光太郎の新しいアトリエが駒込林町二十五番地に完成。グロキシニアの鉢植えを持って訪れる——とある。「グロキシニア」が智恵子の生活史の中にあった。おそらくそれは花か観葉植物であろう。これで�キイワード�の一つはわかったが、もう一つの「腐りし鳥」が依然として不明である。「腐りし鳥」は年譜の中にはなかった。結局、その意味を突き留められないまま、棟居は帰って来た。  棟居の手許にも一冊の高村光太郎資料がある。それは、古館家から借りてきた「智恵子抄」である。そろそろそれも返却しなければならない時期であった。徒労の重さをまぎらせるために、棟居は「智恵子抄」をなにげなく繰った。  冒頭に掲げられた詩に彼の目は貼《は》りついた。それは「人に」という詩である。その後半部は、   いやなんです   あなたのいつてしまふのが——   なぜさうたやすく   さあ何といひませう——まあ言はば   その身を売る気になれるんでせう   あなたはその身を売るんです   一人の世界から   万人の世界へ   そして男に負けて   無意味に負けて   ああ何といふ醜悪事でせう   まるでさう   チシアンの画いた絵が   鶴巻町《つるまきちよう》へ買物に出るのです   私は淋しい かなしい   何といふ気はないけれど   ちやうどあなたの下すつた   あのグロキシニアの   大きな花の腐つてゆくのを見る様な   私を棄てて腐つてゆくのを見る様な   空を旅してゆく鳥の   ゆくへをぢつとみてゐる様な   浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ   はかない 淋しい 焼けつく様な   ——それでも恋とはちがひます   サンタマリア   ちがひます ちがひます   何がどうとはもとより知らねど   いやなんです   あなたのいつてしまふのが——   おまけにお嫁にゆくなんて   よその男のこころのままになるなんて  ここにも「グロキシニア」があった。グロキシニアは花であった。そして「私を棄てて腐つてゆくのを見る様な 空を旅してゆく鳥の ゆくへをぢつとみてゐる様な」とある。「腐つた鳥」もあった。  詩の意味からすると、腐るのは鳥ではなく、花=グロキシニアである。だがこの句の作者は、花の状況と鳥の行方を抽象して、一体の概念とした。作者がこの句作において、「人に」を下敷にしたことは明らかである。  ここに二つのキイワードが解けて、句意がほぼ見当がつくようになった。すなわち、——自分を捨てて去って行った鳥の行方はどうなったであろうか。かつての青春のグロキシニアの花が腐ってゆくのを見るようにその行方を見届けるのは辛い——とこんな意味であろうか。辛いけれどもまた見届けずにはいられないという作者の潜在願望を暗示しているようでもある。  二句は一体となって一元の句意を現わしていた。  だが作者はなぜ、この二句を、731の凄惨《せいさん》な体験に句境を求めた八句に添えたのか。731の記憶と、青春の追憶では、あまりにもかけ離れている。  奥山にとって青春は、智恵子との親交だけだったのではあるまいか。壮年は、731部隊に身を投じ、戦後の晩年は世間を憚って逼塞《ひつそく》した。萩原朔太郎の詩にうたわれていたように「寂寥《せきりよう》の谷から絶望の岸」へ向かうような彼の人生において、智恵子とのおもいでだけが、明るく花やかな光彩に輝く幸福な時期だったのではあるまいか。  純真な中学生(矢部説によると大学生)だった奥山謹二郎にとって姉のように優しい智恵子が、「永遠の女性」として心の祭壇に祀《まつ》られてしまった。彼女は姉であって姉ではない。異性のオールマイティであり、「ただ一人の異性」であった。  そんな奥山の心情を最も適切に、そして芸術的に昇華した名詩としてうたったのが、智恵子を奥山から奪い、その夫として彼女を独占した高村光太郎であったのは、皮肉であった。  資料によると、光太郎が「人に」を書いたのは、明治四十五年七月二十五日である。初めは「N—女史に」という詩題であり、これが彼が智恵子にあたえた最初の詩であった。  奥山はそれより五年前の明治四十年夏、福島県相馬市の海水浴場で智恵子と知り合っている。高村光太郎という巨人に取り込まれてしまった智恵子には、もはや五年前の学生時代のきまぐれな�姉弟ごっこ�など、心の片隅にも留まっていなかったであろう。 「光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきて」と歌にあるように、彼らは二人だけの不朽の愛を追求し、智恵子の劇的な死によってその愛を完成した。それは完全に二人だけの世界であり、なんぴとも入り込む隙《すき》がなかった。  だが他の男とそのような切羽つまった愛に没頭してしまった女性が、奥山にとってただ一人の異性となり、永遠の女性として心の祭壇に終生祀られてしまったとしたら、悲劇である。その悲劇に追い打ちをかけるようにライバルの光太郎が奥山の切ない心情を天才の鋭い感性と卓抜な技巧で詩《うた》い上げたのである。そして光太郎の意識には奥山の存在などなんのしるしももたなかった。  奥山はみじめで辛かったであろう。その辛さをライバルの詩が最も適切に表現していることが、彼の挫衄《ざじく》をうながした。光太郎の詩以上に奥山の気持を現したものはない。  奥山は、光太郎の詩を下敷にして自分の切ない気持を詠《よ》まざるを得なかった。  しかし、明治四十年の「夏の日のおもひで」はあまりにも遠い。当時中学生?であった奥山が健在であるとしても、八十代後半から九十代にかかっているのではなかろうか。智恵子と同年輩であれば九十五、六歳である。茫々《ぼうぼう》とかすむような少年の日の�純愛�を、曲折波乱の多い長い人生においてかかえつづけていられるものだろうか。  奥山がどのような人生コースを辿《たど》ったのか詳《つまび》らかではないが、神谷が、元気ならばそろそろ米寿だと言った言葉から逆算して、終戦時が五十三歳ごろ、731部隊の創設時の昭和八年ごろから同隊に身を投じたとしても四十一歳である。  当時奥山には「智恵子」という年ごろの娘がいたというから、すでに結婚していたことは確かである。彼の結婚生活にも智恵子が濃い影を落としていたことが推測される。  奥山の後半生が平穏無事なものであったならば、智恵子との姉弟ごっこは青春前期の夏のおもいでとして遠い歳月と共に霞《かす》んでしまったであろう。  だが奥山は731部隊に所属していて、数々の悪魔の所業を目撃した。また組織の命令とは言いながら自らの手を汚したこともあったであろう。それだけでなく、自らの愛娘を失った。戦後引揚げてからも地に潜るようにして、息をひそめて暮らした。そんな彼にとって智恵子との「夏の日のおもひで」だけが、人間らしい幸福の光彩に満ちていた時期だったのではあるまいか。たとえ智恵子にとっては夏の一時のプレイの玩具にすぎなかったとしても、奥山の一生の宝となったのでは。  過去は遠ざかるほどに美化されやすい。もともと美しかった過去が、逆行性健忘のように茫々たる時間の青い霞の中から、くっきりと浮かび上がってきたのではないのか。  棟居の胸の裡《うち》をある予感が閃光《せんこう》となって走り抜けた。——青春のグロキシニアを見届けむ——  現在米寿とあれば、配偶者も健在かどうかわからない。老残の孤独の身を、遠い青春のおもいでの地に託そうとする傾きはないだろうか。奥山にとって智恵子との第一のおもいでの地は、相馬市の原釜海水浴場である。しかし同地には奥山の消息はなかった。それにいまの原釜は、往時とはあまりにもかけ離れているという。  するとこれに替わるべき地は……光太郎と智恵子の生活の大部分が営まれた駒込林町二十五番地のアトリエ付近はどうか。もしかしたら奥山はその近くに「終《つい》の栖《すみか》」を求めたのではないのか。 「人に」の中には地名もある。  ——チシアンの画いた絵が 鶴巻町へ買物に出るのです——  この鶴巻町は現行表示も同じの新宿区「早稲田鶴巻町《わせだつるまきちよう》」であろうか。  早速地図で調べてみると以前の駒込林町二十五番地は、現行の文京区|千駄木《せんだぎ》五丁目の区域に入る。地図上では五丁目二十五番地の文林中学付近と見当がつけられた。なお同区千駄木二丁目十七の十五に高村光太郎記念会がある。こちらへ問い合わせれば正確な地点がわかるだろう。  晩年といっても戦後は三十六年間である。神谷の話では前橋の方にもいたらしいが、同地での生活の跡は見つけられなかった。いつごろから来たか、また果たして智恵子ゆかりの地を慕って来たかどうかわからないが、一定期間生活の根を下すとすれば、�幽霊住民�のままではいられまい。受持派出所の巡回連絡にも引っかかるであろう。  もし奥山が智恵子ゆかりの地に住んでいれば、探し出せるかもしれない。棟居の胸に新たな灯が点じた。それは米寿以上の老人の生存と、彼の遠い日の純愛にかけるかすかな希望の灯である。  老人の胸の中にそのわずかな火が消えることなく連綿と燃えつづけていれば、棟居の予感が当たるかもしれない。      2  地下鉄千代田線千駄木で下車すると、ちょうど団子坂下《だんござかした》の交叉点《こうさてん》の角に駒込署の団子坂派出所があった。そこで場所を聞いて歩きだす。八月の暑熱が街を灼《や》き、道行く人はみな茹《ゆだ》ったような顔をしている。  団子坂を上り切ったところで右へ折れる。地図上、「本郷保健所通り」と称《よ》ばれている通りであるが、「ヤブ下通り」という由緒深い名前もある。根津《ねづ》神社の裏手から駒込方面へ抜ける間道として古くから自然にできた径《みち》で、昔は道幅が狭く両側は笹藪《ささやぶ》となっており、雪の日は雪折れ笹に径を塞《ふさ》がれて通行もままならなかったという。  いまは舗装され、往時のおもかげを忍ぶ由もないが、両側は静かな住宅街となっており東京の街路としては車の通行も比較的少ない。遠い昔雪に塞がれた径は、八月の輻射熱《ふくしやねつ》にアスファルトも柔らかくなるほどに灼けている。北海道文京会館や本郷保健所の建物の前を通り過ぎて少し行くと、駒込署の千駄木派出所がある。光太郎の旧居は、派出所のすぐ手前を左手に折れて、鉤型《かぎがた》に曲ったあたりだと、団子坂下の派出所で聞いてきた。  教えられた通りに道を辿ると、それはブロック塀に挟まれた私道のように狭い小道であった。ようやく探し当てた家は、白壁に黒い付け柱をあしらったいかにも地方の旧家といったおもむきの二階家で、孟宗竹《もうそうちく》と土塀をめぐらしている。格子造りの門の間から森《しん》と戸を閉ざした玄関が見える。家人の気配はまったく漏れない。どこからか息も絶えだえの風鈴の音が忍び寄って来る。  だがようやく探し当てた�旧居�は目指すものではなかった。文京区の教育委員会が建てた表示板によると、この家は光太郎の父、高村光雲の旧居跡で明治二十五年から昭和九年まで四十二年間住んだということである。光太郎は智恵子との結婚と同時にこの近くの千駄木五丁目二十二番地の八へアトリエを建てて移転した。現在の家は家督を継いだ光雲の三男豊周が昭和三十三年に建てたものであると書いてある。  地元では、この高村光雲と豊周旧居が、「光太郎の家」と混同されているらしい。派出所へ行って再度聞くのも面倒なので、棟居は地図を頼りに探し歩いた。静かな住宅街で小さな路地が輻輳《ふくそう》している。間もなく学校の傍へ出た。地図によると「文林中学」である。電柱の住居表示は、五丁目二十二番地となっているが、それらしき表示板は見当たらない。  来る前に文京区の社会教育課に問い合わせたところ、アトリエ跡に区が立てた表示板があるということであるが、それらしきものはいっこうにない。向うからやって来た地元の主婦らしい中年の女性に聞くと、いま回って来たばかりの光雲の旧居を教えてくれた。探し回る棟居を油照りの暑熱が容赦なく焙《あぶ》り立てる。のどの渇きに耐えかねた棟居は、とある路地にあった小さなパン屋に飛び込んだ。牛乳を一本のどに流し込んでようやく人心地を取り返すと、ふたたび同じ質問を繰り返した。 「ああ、それなら角を回った通りを少し保健所の方へ戻った所にありますよ。いまは区の表示板があるだけで、よその家となっています」  パン屋の内儀がおしえてくれた。彼女が言う「通り」は、先刻伝って来た保健所通りのことである。小規模の団地風の警察庁宿舎と通りを挟むような位置のブロック塀のかたわらにその表示板はひっそりと立っていた。注意していなければ見すごしてしまうところであった。表示板には、光太郎がこの地に智恵子との結婚と同時に「外部が黒塗りの風変りなアトリエを建てた」と記されている。そして——光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきて昔此処に住みにき——とある。 「たぐひなき夢か」  棟居は、額の汗を拭きながら茫々《ぼうぼう》七十年の昔を偲《しの》んだ。そこは現在高村家とはまったく無縁の人の住居になっているらしい。ブロック塀に囲まれた平凡な民家からは、「たぐひなき夢をきづいた」光太郎智恵子の愛のアトリエを想像するのは難しかった。  時々、車が排気ガスを浴びせて通りすぎる。車の通行が跡絶《とだ》えたとき、遠方からピアノの音がかすかに聞こえてきた。  棟居は我に返った。光太郎智恵子の夢の痕跡《こんせき》を追うのが目的ではなかった。二人の生活史の周辺に奥山謹二郎の生活の足跡を求めてきたのである。だが光太郎智恵子のゆかりの地と言っても茫漠《ぼうばく》としている。それは、棟居の感傷から立てた臆測《おくそく》にすぎない。  すべての手がかりを断たれて、ロマンチックな感傷に最後の糸口を求めざるを得ない棟居も辛い。  奥山謹二郎が「終《つい》の栖《すみか》」をこの地に求めたとすれば、必ず新本籍の設定か、住民登録(住民基本台帳に記載)をしているであろう。幽霊住民のままでは、各種年金、各種保険、各種名簿への記載、資格登録、売買、選挙権、軍人恩給など、市民としての諸権利の享受行使や身分行為や契約ができなくなる。  米沢や前橋になかった奥山の�市民�としての公的な資料が、この地の役所に残っているかもしれない。  棟居は、区役所の方角へ踵《きびす》をめぐらした。団子坂の上に、文京区役所の汐見《しおみ》出張所がある。棟居はそこに奥山の住民としての記録の有無を当たってみるつもりであった。それだけが最後につないだ希望である。それは奥山の青春の純愛につないだ希望と言える。初めに公的資料を当たらず、光太郎智恵子の「夢の跡」をたずねたところに、棟居の一片の感傷がある。  もと来た道を戻って団子坂上の交叉点へ出た。交叉点を渡り、坂下へ向かう斜面のビルの中に区の出張所はある。出張所に隣接して八階建の瀟洒《しようしや》なマンションが建っている。外壁は煉瓦《れんが》模様をデザインした代赭色《たいしやいろ》の渋い色調である。一階は路面よりやや低くなっており、花屋になっている。「フローリスト団子坂」の看板が出ていた。棟居は「花と団子」の取り合わせを面白くおもった。ストレートに「団子坂花屋」としないのは、花が団子に負けるからであろうか。  なにげなくその花屋の店先に目を向けた棟居は、街路に棒立ちになった。棟居が突然立ち停まったために、後から来た人が危うくぶつかりそうになった。  棟居は斟酌《しんしやく》せずに街路に立ちつくしたまま、花屋の店先に視線を膠着《こうちやく》させていた。彼の視線の先に赤いあざやかな花があった。肉厚のビロード状の花弁で、白く縁取りされている。見るからに派手な目立つ花で、店頭の他の花を圧倒していた。  棟居は、その花に記憶があった。原釜海水浴場の「笠岩公園」の温室に咲いていた赤い花と同じであった。原色の氾濫《はんらん》する海岸でもその花の色彩は一際花やかに映えていた。  棟居は、花屋の店先に飛び込んだ。若い女店員が彼を客とまちがえて愛想よく迎えた。 「この花は、何という花ですか」  棟居は質《たず》ねた。 「この花でございますか、グロキシニアと申します」 「グロキシニア!」  棟居は、おもわず声の抑制をはずした。店員がビクッとして身体を後じさらせた。 「いまグロキシニアと言いましたか」  棟居は、声を平静に戻して確かめた。 「はい。きれいな花でしょう。なかなかデリケートな花でございまして、夏は日やけを起こしやすいんですのよ。でも直射日光を避けて涼しい所におくとけっこう長保ちしますわ」  店員は棟居が買ってくれるとおもったらしい。  グロキシニア(光太郎はグロキシニアとグロキシニヤ両様に呼び、統一されていない)が、智恵子の「夢をきづきし」地にあった。グロキシニアは奥山の句のキイワードであるばかりでなく、智恵子光太郎の生活史(愛の歴史、と言ってもよい)を彩った花である。  年譜によると、明治四十五年六月智恵子が光太郎を初めてそのアトリエへ訪ねたとき、グロキシニアの鉢植を土産に持参している。いかにも智恵子の好みそうな濃厚で凄艶《せいえん》な夏の花である。また光太郎の詩にもしばしば登場する。  その花が、智恵子ゆかりの土地の花屋にあった。それは偶然であろうか。花屋ならば、グロキシニアを売っていてもおかしくはないだろう。だがグロキシニアという花は、それほどポピュラーな花ではない。棟居も、「人に」という詩によって初めて知った花である。  棟居はふとおもいついて店員に聞いた。 「珍しい花ですね。ところでこの花をこの近くに住んでいる人でよく買う人がいるのですか」 「ええ、グロキシニアのとても好きな方がいらっしゃいます。珍しい花なので値段も嵩《かさ》み、この辺ではあまり捌《さば》けないのですが、そのお客様のためにおいているようなものです」 「その人は、奥山さんというお年寄りではありませんか」 「あら、よくご存知ですのね」  店員の表情が軽い愕《おどろ》きを浮かべた。当てずっぽうに言った言葉が、見事的を射て、棟居はむしろ余勢があまった。 「実はその奥山さんを訪ねて来たのですが、所番地がちがっていて、探しあぐねているのです。ご住居をおしえていただけませんか」  棟居は、盛り上がる興奮を意志的に抑えていた。とうとう奥山の居所を突き止めた。棟居が最後の希望を託した感傷的推理が的中したのである。 「奥山さんならば、保健所通りを駒込の方へ少し行ったヤブ下マンションですわ。ここのところちょっと姿をお見かけしませんけど、お具合でも悪いんじゃないかと心配していたんです」  店員は懸念げに少し首を傾げた。 「姿を見かけないって、どのくらい見かけないのですか」 「そうですね、一週間くらいかしら。毎日、朝夕二回ずつ保健所通りから高村光太郎と智恵子の表示板が出ている角を曲って文林中学の方へ散歩されるんです。お花の配達に行く途中よくお会いしましたわ」 「智恵子の表示板ですか」 「あのお爺《じい》さん、よほど高村光太郎が好きだとみえて、あの表示板を見つめている姿を時々見かけましたわ」  奥山は終の栖を智恵子ゆかりの土地に求めて、その余生を智恵子のおもかげすら残っていない旧居の跡を朝な夕な散歩することで過ごしていたのである。棟居が想像していた以上の�純愛�が、老いた�弟�の胸に生きていたようである。  棟居は、花屋の店員から奥山老人の住居を聞いた。高齢であるので、ここ一週間ほど姿を見かけないというのが気になった。  ヤブ下マンションは保健所通りを表示板の方へ少し戻ったところにあった。コンクリート四階建の古ぼけたマンションである。壁面に画かれた雨水の縞《しま》模様が、その建物の古さを物語るようである。隣邸の庭樹が、マンションの南面を塞ぐ形にのびていて、全体の印象は暗い。  奥山の部屋は、東西に長い棟の二階西の棟末の道路に面した位置にあった。その部屋201号室の前に立った棟居は、いやな予感を覚えた。郵便受《メールスリツト》に数日分に相当する新聞の束が押しこまれ、あふれた分が、ドアの下に落ちていたのである。  明らかに住人は、ここ数日新聞を読んでいない。ということは住人の留守を意味しているのか。  棟居は、玄関に立ってブザーを押してみた。室内に人の気配は生じない。これが居住者が若い人間であれば、不在でもさして心配はしない。だが先方は米寿の老人である。都会の独り暮らしの老人の孤独死があいついでいる折でもある。棟居の不安は募った。  ちょうど廊下を居住者らしい主婦が通りかかった。棟居が奥山は留守かと質ねると、 「そう言えばここ数日姿を見かけないわね」  と言った。だがさして気にかけているようにも見えない。 「奥山さんは一人暮らしでしょう」 「ええそうですけど」 「それが数日も姿が見えないというのは、おかしいとおもいませんか」 「旅行でもしているんじゃありませんか」 「長い旅行なら新聞をとめていくはずだが」 「きっと帰って来てから通して読むつもりなんでしょう」  主婦は面倒臭そうに言うと階段を下りて行った。あまり住人相互の交際のないマンションらしい。棟居は試みにドアのハンドルを回してみた。錠《じよう》の手応《てごた》えはなくドアはいとも簡単に開いた。 [#改ページ]   終生口留金      1  ドアの内側には熱せられた空気が澱《よど》んでいた。玄関の内部は一メートル平方ほどの土間になっていて、メールスリットを潜り抜けた新聞の束が積み重なっている。底のすり減った男物サンダルが一足、上がり口におかれている。 「奥山さ……」玄関土間に立って再度呼びかけようとして棟居は鼻を押えた。澱んだ空気の中にこもった異臭が、鼻腔《びこう》を直撃したのである。それは動物質の腐敗臭である。それは屋内の奥の方にわだかまっていたものがドアを開かれて出口を見つけた空気の流れに乗って移動してきたようである。  上がり框《がまち》は一畳ほどの板敷になっている。左手にトイレット、右手が浴室と台所になっているらしい。奥の部屋との仕切りには襖《ふすま》が閉まっていて、様子がわからない。  右手の台所の流し場をうかがったが、食物の残渣《ざんさ》がたまっているようにも見えない。それにしても、この動物質の腐敗臭は強烈であった。それは磯《いそ》の香を煮つめたようなにおいであるが、においの中に一種の凶暴性が潜んでいるようであり、臭源から牙《きば》を剥《む》き出して鼻腔に襲いかかって来る。  棟居は、同種のにおいを以前にも何度か嗅《か》いだことがあった。彼の経験は、それが鼠《ねずみ》や魚の腐ったものではないことを教えている。棟居が抱いた不吉な予感は、次第に的に近づいて来るようであった。  棟居は、念のために再度襖越しに声をかけた。だが気配は依然としてない。彼はおもいきって靴を脱ぎ、板の間へ上がった。境の襖をそろそろと開くと、そこは六畳ほどの洋室になっており、テレビやソファ、小さなテーブルなどがおかれている。部屋の主はそこを居間にしているらしいが、人の姿はない。  異臭はますます濃厚にわだかまっているが、臭源らしきものは見当たらない。部屋は南に面しているが、カーテンが引かれており、その外を隣家の庭樹が塞《ふさ》いだ形になっているので、暗い。  洋室の右手に間仕切りの襖があり、その向うにもう一部屋あるらしい。異臭はそちらの方角から来ている。棟居は洋室に入り込み、一呼吸おいて襖を引いた。  凝縮された悪臭がまともに鼻に迫った。鼻はあらかじめ備えを施していたが、強烈なにおいは、目にも沁《し》みるようである。最小限の呼吸をしながら、素早く観察の視線を走らせた。  その部屋は六畳の和室となっており、部屋の中央に一人分の布団が敷かれて、老人が寝ていた。夜具は乱れておらず、仰向けに横たわっている老人の顔が夜具の上端に少し覗《のぞ》いているが、それは明らかに生きている人間のものではなかった。この部屋が西の棟末に位置しているために、壁越しに西日の暑熱がたまり、死体の腐敗をうながしたとおもわれるが、一見したところ、部屋が暗いのと、死体の大部分が布団に隠されているので、むごたらしい変形は明からさまではない。棟居は神谷から提供された奥山の写真をもっているが三十余年も前のものであり、死後変化が加わっているので、確認の役に立たない。  部屋の中も整然としており、格闘や物色の痕跡《こんせき》はなさそうである。棟居はそのまま観察をつづけたい誘惑に駆られたが、現場が他署管内なので、なにはともあれ、管轄署に連絡することにした。  棟居の連絡によって管轄の駒込《こまごめ》署から係官が駆けつけて来た。発見者が同業の刑事なので彼らも気を遣っているのがわかる。棟居は、駒込署の係官に発見するまでの経緯をざっと話して、死者が麹町《こうじまち》署で扱っている中国人女性通訳不明死事件の関係人物であることを伝えた。  駒込署員は緊張して、現場観察の主導権をむしろ棟居に委ねた形になった。死者は、検屍の第一所見によれば死後経過推定一週間から十日、一見、最近独り暮らしの老人に多発している�孤独死�の状況を呈していた。  死体は一枚のマットレスと一枚の敷布団を重ねた上に仰向けに横たわり、両手を体側に沿って下方に伸ばし、両足もほとんどまっすぐに伸ばして両|踵《かかと》の間隔は約十センチである。非常に行儀のよい寝姿と言える。  身につけているものは白メリヤスのアンダーシャツと、木綿の猿股《さるまた》、白メリヤスのステテコであり、その上にかけ布団が一枚かけられている。暑熱と、布団にサンドイッチにされた形の死体は腐敗が著しいが、窓が密閉されていたために、蛆《うじ》は湧いていない。室内に暑熱がこもり、窓を開いた後も検屍《けんし》の一行に汗が噴き出してくる。  枕元にはなにもおかれていなかった。  老人の孤独死は、餓死、ついで就寝中の脳出血や心臓発作などが多いが、死体は老衰と腐敗が顕著ではあっても、栄養状態は悪くなかった。  念のために台所の冷蔵庫を調べると、果物、卵、牛乳、野菜類などがかなり残っている。ポリ容器の中に五キロ入りのほとんど手をつけていない米袋があった。  老人は餓死したのではなかった。寝たきりになって床の中で死んだにしては、布団が汚れておらず、寝たきり老人に多いたれ流しなどの痕跡もないところから、死の直前まで自力で動けた状況が推測される。それに寝たきりであれば、枕元で「小間物店」が開かれているはずである。  老人は、体の自由のきく者でも動きが鈍くなり、身の回りの品を手の届く範囲におきたがる。不用の品でも風呂敷に包んで後生大事にためこんでおく。だがこの老人は、古いながら、こざっぱりしたマンションに小ぎれいに暮らしていたとみえて、寝たきりやボケ老人のように寝床を中心に生活用品が乱雑に固まっていない。  室内はきれいに整頓されており、家具や調度類も決して豪勢ではないまでも、中級品以上のものばかりである。独り暮らしの老人のほとんどが生活保護や年金にすがって細々と生きているのに比して、この老人は割合い裕福に暮らしていた様子である。 「この暑いのに、ずいぶん厚ぼったい布団をかけて寝ていたものだな」  棟居が死体を被っていた掛け布団の厚みを指でまさぐりながらつぶやいた。ふかふかした綿がたっぷりと入っていてみるからに厚みがある。 「老人ですからね、寝冷えしないように用心していたのでしょう」  管轄署の福田という刑事がこともなげに言った。 「それにしても、サッシ窓を閉めきり、カーテンを引いて寝たのでは、さぞ暑かったでしょうな」  棟居は、拭《ぬぐ》っても拭っても滲《にじ》み出て来る汗をもはや流れるに任せたまま、窓の方を見た。南に面して二枚引きのサッシ窓があり、そこに夏冬兼用らしいベージュ色のカーテンがかかっている。死後経過を最大限の十日間と見積っても、八月の五日頃死んだことになる。 「そう言えば、上掛けは毛布かタオルケットぐらいでよさそうですな。寒がりだったんでしょうか」  福田が少し首を傾げたが、本当に不審がっているわけではない。係官の一人が同じマンションの住人らしい男を引っ張って来た。 「だいぶ生前と様子が変っていますから、よく見てください」  腐敗による無惨な変貌《へんぼう》に住人は目を背けかけたが、係官に背を押されるようにして恐る恐る死者と対面した。 「奥山さんにちがいありません。ここ数日姿が見えないので、どうかされたのかとおもっていたのですが、まさか亡くなっていたとは……」  彼は蒼白《そうはく》になって答えた。 「数日じゃありませんよ。少なくとも一週間以上のはずです」  係官がたしなめるような口調で訂正した。隣人たちがもう少し老人に関心を抱いてくれていれば、もっと早く発見できたはずだと暗に言っていた。 「えっ、そんなに経っていたかなあ。なにせ、ほとんどおつき合いがなかったものですから」  住人は頭をかいた。かきながらのどの奥からゲーッとこみ上げかけて慌てて口元を押えた。係官は住人を外へ連れ出して、さらに質問をつづけることにした。  開け放した窓から死臭を嗅ぎつけて蠅《はえ》や小虫が蝟集《いしゆう》しかけていた。マンションの廊下には住人が、建物の前には弥次馬が群がり始めている。  死体の外表を観察しただけでは、死因は不明である。顔面に腫脹《しゆちよう》が見られるが、腐敗ガスによる影響である。身体に死因となるような外傷はない。頸部《けいぶ》に紐で絞めたり、手で圧迫したりしたような痕《あと》も見当たらない。薬毒物を服用した痕跡もない。枕元や屋内に薬物のびんや包みも残されていない。  就眠中、断末魔の苦悶《くもん》をする余裕もなく急発の発作が老人を襲ったのであろうか。  またこの段階では、死因が犯罪によるかどうか定かではない。だが麹町署に設置された(準)捜査本部事件の関係人物とあって、駒込署では慎重な取扱いをしていた。犯罪に基づく疑いのある死体となれば、爾後《じご》の採証活動を考慮し、捜査に支障をきたさないようにしなければならない。 「おやあ」  死体の周辺を観察していた福田が頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「どうかしましたか」  棟居が目を向けると、 「ここの畳表に爪《つめ》でかき|※[#「手へん+毟」、unicode6bee]《むし》ったような痕があります」  福田が畳の一点を指さした。見過しそうだが、よく見ると、畳の表面がうすくかき取られて少し毳立《けばだ》っている。そこだけうすい縞が刷かれたようになっていた。 「比較的新しそうですね」 「こんな所をどうしてかき※[#「手へん+毟」、unicode6bee]ったんでしょうね」  二人は顔を見合わせた。二人共同じことを考えていた。早速、死者の指の爪が調べられた。 「やっぱり指の爪にわらがつまっている」  福田がうめくように言った。死者は、死ぬ間際、苦悶して畳をかき※[#「手へん+毟」、unicode6bee]った痕跡を指に留めていた。それにもかかわらず、死体は布団の中に仰向けに極めて行儀よく寝ていたのである。 「布団の中の位置からでは、どんなに手を伸ばしてもかき※[#「手へん+毟」、unicode6bee]った畳まで指は届きませんな」  棟居は自分の言葉の意味をまさぐった。とすると、断末魔の苦悶の中に畳をかき※[#「手へん+毟」、unicode6bee]った奥山老人を、死後だれかが布団の中に運び込んだことになる。だれがなぜそんなことをしたのか? 畳をかき※[#「手へん+毟」、unicode6bee]った苦悶も、自らの体内から発したものではなく、他から強制されたのではなかったのか。  ここに死体は一挙に犯罪性を帯びて、本部捜査第一課と鑑識課に検証の要請がなされたのである。      2  捜査一課と鑑識課が臨場して変死の疑いのある死体として刑事訴訟法二二九条に基づく検視が行なわれた。それによって犯罪による疑いが濃くなってくれば引きつづき検証が実施されることになる。  捜査一課から出動してきたのは那須班である。棟居は、黒人青年刺殺事件において、すでに彼らと顔なじみであった。特に横渡刑事とは「犯人の郷里」までいっしょに探索に行った仲である。横渡は特徴のある三白眼でまた会ったなというような合図を送ってきた。  検視によっても腐敗が進行しており、死因の判定が困難なので、さらに監察医に検按《けんあん》を求め、監察医務院で解剖に付されることになった。  初めから死亡が犯罪に起因することが明らかな場合は、慣習に従って二十三区内は東大か慶大、三多摩地区は慈恵医大か杏林《きようりん》大の法医学教室において司法解剖に付されるが、検視(監察医が行なう検屍は検按)によっても死因が判明しない場合は、監察医務院で行政解剖される。  このあたりが法律的に曖昧《あいまい》かつ輻輳している域であり、まず不自然な死体が発見されて、どの段階で犯罪死体、変死体(犯罪に起因するか否か不明)、異常死体(犯罪に起因しないことが明らかなもの)の取扱い区分を認定するのかよくわからない。  区分を認定するためには、死体を観察しなければならないが、明瞭な他殺死体を除いては、最初に駆けつけた警察官にその認定を求めるのは無理であろう。次いで所轄署による現場および死体の状況の見分、第一発見者、目撃者などからの概括的な事情聴取によって区分の判断をするわけであるが、その段階で必ずしも法医が死体を見るわけではない。死体の取扱い区分の判断を法医学の専門家でない警察官に委ねているのは、危険である。  発見直後の観察において、非犯罪死体として処理されたものの中に、あるいは犯罪による死因が隠されているかもしれない。  したがって警察はその認定時期について「届出を受けた時点で先ず捜査第一課へ即報のうえ、現場へ急行し、死体の外観、四囲の状況、関係者からの事情聴取等一応の調査をして、しかる後に検視規則、又は死体取扱規則いずれが適切妥当であるか決定し、迅速に処理することが肝要である」と定めている。  つまり死因曖昧な死体はすべて捜査一課に預けてしまえというわけである。だがこのようにして変死体としての検視が行なわれたとしても、刑訴法や医師法に徴して、検視において最も重要なパートをつとめるはずの医師による死体の検按は必ずしも義務づけられていない。  また検察官の検視や、警察官の代行検視においては、死体が発見された環境状況や着衣、持物などを主体に見て、死体の全体的観察は医師に委ねる。  その結果の医師の意見はあくまで参考であって、法医解剖を実施するかどうかの決定権は検察と警察にある。  捜査一課が臨場しながら監察医務院において行政解剖に付されたのは、死体の腐乱が著しく、死因の判定が困難であったからである。  監察医務院の解剖の結果——死因は急性の窒息。絞頸《こうけい》、扼頸《やくけい》等の頸部に作用した外力の痕跡は認められず、布団等を鼻、口にあてがって呼吸運動を阻害して死に到らしめたものとみられる。推定死後経過は七日乃至十日。  肺の内部、および気道内に布団の綿くずが少量認められる。死者は高齢なれど、諸内臓は健康であり、死因に影響を及ぼす疾病《しつぺい》は認められない。薬毒物の服用は認められない。他為死の疑い濃厚なるも断定できない。——とされた。  なお指の爪の隙間から採取されたわらと一緒に、犬の毛と認められる動物質の毛が発見された。  一方、死者の修整写真が熱海の神谷勝文にも送られて、本人にまちがいないことが確認された。  ここに殺人事件と認定されて駒込署に捜査本部が設置され、捜査が開始された。被害者は奥山謹二郎(八十八)で住民基本台帳の記載によると、生年月日は明治二十六年(一八九三)五月十四日。現住所に転入して来たのは、昭和五十二年三月九日、転入前の住所地は埼玉県|本庄《ほんじよう》市、本籍地は、東京都世田谷区|代沢《だいざわ》二—三十×。また本人が世帯主で家族はない。老齢福祉年金を受給等、住民基本台帳でわかるデータは以上である。  現住所のヤブ下マンションに入居したのは、昭和五十二年二月八日からで、不動産屋の斡旋《あつせん》である。職業は翻訳家兼、大学講師というふれこみである。子供たちがみな自立し、妻も病死したので、家を長男夫婦に譲り渡してマンションに独り悠々自適をするということであった。  人品骨柄も卑しからず、規定の前家賃、敷金権利金等をポンと払ったので、入居させたと「大家」は語った。  だが入居後、子供たちが訪問した模様もなければ、大学へ講義に行った様子もない。よほどの蓄えがあるのか、暮らしぶりは裕福であり、家賃、ガス・水道等料金の滞納はなかった。彼の唯一の収入であった老齢年金、年間約三十万円ではマンションの家賃すらも賄えない。奥山の住居内を調べたところ菱井《ひしい》銀行駒込支店に約一千万円の定期、残高八十二万円の普通預金通帳の他に三万八千円ほどの現金があった。貯金通帳には三十万円前後の金額が年三、四回の割で預け入れられている。奥山はどこからか定期的収入を得ていた模様であった。だが屋内を隈《くま》なく検索しても、特定の人間との通信の痕跡、その存在を示すメモ、郵便物の類は発見されなかった。  近隣の聞込みによっても奥山に定期的訪問者があった気配はない。稀に不定期の訪問者があったかもしれないが、印象にないということである。マンションの住人の移動が激しく、相互のつき合いがあまりないところへ、奥山がなんとなく拒絶的で、身辺に垣根を立てていたので、入居者たちも敬遠していた。  奥山を殺した犯人として最も疑われる者は、中国人女性通訳急死事件の関係者である。奥山は、その事件についてなにか重要なデータを知っていたために口を封じられたのではあるまいか。すると中国人女性通訳の死因も他為ということになる。  さらに奥山の不明の収入源についても、その死因の秘密をタネに何者かを恐喝していた疑いが生じてきた。  だが棟居は、恐喝のタネがあったとすれば、単に中国人女性通訳の死因についてなにかを知っていただけではないと考えた。奥山が無職のままこのマンションに住みついて四年以上になる。この地に転入前の住所は、本籍地の戸籍の附票によると新宿、横浜市瀬谷区、本庄市となっているが、大正十年、結婚と同時に東京世田谷区に編製した本籍が戦災に遭って法務局の副本共々焼失して、世田谷の区役所に再製した戸籍はすべて本人の申し立てに基づいていることが判明した。  住民票では、本人の職業の経歴はわからない。だが、奥山がヤブ下マンションに入居してから四年間、年間百万円前後の定収入があった模様である。つまり、楊君里が不明死を遂げたずっと以前から定収入はあったのだ。ということは、定収入が楊君里の死因に基づいたものではないことを物語る。それでは何に基づいていたのか。  棟居はそれを731部隊から発しているのではないかと考えた。奥山謹二郎は、経歴を隠して都会の片隅のマンションに逼塞《ひつそく》していた。住民票には記載されていなかったが、前橋に住んでいたのは、本庄から東京の最後の住所地へ来るまでの間の昭和五十二年三月九日以前と推測される。奥山がなぜ前橋に住んだのかわからないが細君の死亡届は五十一年十二月十三日埼玉県本庄市へ出されていた。前橋と本庄は「県ちがい」であるが、共に県境に接して相互の距離は近い。  前橋時代に、神谷勝文に手紙を送ったのであろう。細君が死んで天涯孤独の身となった奥山は、遠い青春の幻影を追って智恵子のゆかりの地へ終《つい》の栖《すみか》を定めたのであろう。同地に移り住んでからは、731部隊の元隊員たちとの接触を絶ち、ひたすら智恵子とのおもいでの中に浸って生きていた様子である。その智恵子は、茫々《ぼうぼう》たる時間の経過の中に偶像化され、自分の娘や妻と重ね合わされて余生を支える唯一のよすがとなっていたのかもしれない。  だが彼の隠者のような生活も、社会と交流するかすかな出窓があったにちがいない。その窓を通して、生活を支える定収入が入ってきた。定収入の源が731部隊の秘密にあったのではないのか。  彼は731の重大な秘密を知っており、それを黙秘する代償として余生の生活を保証された。このまま何事もなければ、潤沢な口留料を終生支給され、天寿を全うしたことであろう。  だがここに戦後三十六年して楊君里が現われ、元731隊員たちに接触を図り始めた。楊君里と奥山謹二郎を会わせてはまずい事情があった。そこでまず楊の口を封じ、捜査陣が動きだしたので、奥山を探し出される前に抹殺した。——というのが、棟居の立てた仮説であった。だがすべて彼の臆測にすぎず、裏づける資料はなにもない。  現段階では奥山と楊の二人の死を結びつけることも難しい。第一回の捜査会議は麹町、駒込合同で行なわれたが、両件を結びつける論拠として、——  楊君里の死体のそばにレモンが転がっていた→楊の遺品の「日本短篇小説選[#底本では「しんにゅう+先」]」中の一作、波肇《なみはじめ》が「深夜の出棺」にレモンが出てくる→楊は731号室への宿泊を忌避しており、波肇は731元隊員であった→波肇が死期の近い床から、高村光太郎の「智恵子抄」を指さした→波肇の葬儀に会葬した戦友から、「智恵子」という娘をもっていた奥山謹二郎の存在を聞き出す→奥山と長沼(高村)智恵子は、昔、恋人?関係にあったらしい→奥山は智恵子ゆかりの地で、犯罪性濃厚な死体となって発見された。——という関連性である。 「『風吹けば、桶屋《おけや》が儲《もうか》る』ような関連性だな」  出席者の一人がその迂遠性《うえんせい》を皮肉った。 「だいたい死んだ中国人女通訳が731号室を忌避したというだけで、731部隊と関係があったとするのは、乱暴じゃないかな」  さらに消極意見が出された。 「しかし楊君里が死んで二か月半後に、レモン哀歌の智恵子に接点をもつ奥山が怪しげな死に方をしたというのは、なにか因縁がありそうだ」  ようやく棟居の仮説を応援する意見が出た。 「米寿の老人だぜ。いつ死んだっておかしくないよ。布団を引っかぶったまま老人性の発作に襲われて死んだのかもしれない。解剖も自・他殺の別の判定を避けたのだ」  応援意見は他愛なく潰《つぶ》された。捜査会議は紛糾したが、一応楊君里の不明死事件と関連性あるものとして準合同捜査体制の下に、次の捜査方針が決定された。  一、731部隊関係者からの容疑者割出し。  二、楊君里との関係の洗い出し。  三、不明の定収入源の割出し。  四、被害者の経歴調査。  五、知己関係(被害者が犯人を屋内に入れた状況から)の調査。  六、動機の洗い出し。  七、犯行推定日前後の訪問者、現場付近通行者並びに不審者を目撃した者の発見。  八、現場付近に土地鑑を有する犯罪前歴者、素行不良者、暴力団関係者、不審者、無職者の捜査。      3 「準合同捜査」とは曖昧《あいまい》な体制である。それは捜査陣の資料が不足しており、二つの事件が関連しているか否か見通せない自信のなさを反映していた。したがって「準合同」とうたっていても、「必要があれば連絡し合う」程度で、二つの捜査本部は、それぞれ別個独立に捜査をしていた。  死体の第一発見者である棟居が両本部の連絡役となったが、棟居はむしろ駒込署の本部に出張って動いていることが多くなった。麹町署の本部の方は、棟居を派遣して、捜査の戦力の中核を欠き、がらんどうになった観があった。もともと自・他殺両面の構えの捜査に対して熱っぽい姿勢に欠けていたきらいがあった本部が、最大の推進力となっていた棟居を「駒込」の方へ取られてしまった形になったのだから止むを得ない。  棟居は、「麹町」から来た�客分�の形であったので、「駒込」の捜査方針に縛られず、比較的自由な立場で動けた。これは�組織捜査�の下で、組織の歯車として動かなければならない現代警察の捜査体制の中で、非常に恵まれた立場であった。組織捜査は、広域化、スピード化した現代の犯罪に対して有機的な広い捜査網を広げることができるが、刑事の個人的な経験や適性や能力を圧迫し、カンや閃《ひらめ》きを殺してしまう。またセクショナリズムの功名争いから、網の破れ目をつくってしまう。捜査員の小まわりがきかないために、犯人の動きに即応できないことが多い。  棟居は、組織捜査がその広範多岐な触手によって収集してくる資料の恩恵に浴しながら客分として、自由に動ける立場を大いに利用した。那須班のメンバーとは顔なじみであるし、この本部事件の発端は、棟居にあるので、客分でありながら、その位置は中心に据えられている。  棟居は奥山殺害の動機が731部隊に発しているにちがいないとみていた。犯人は必ず731部隊から来ている。そして楊君里の死を発端にして伸びて来た捜査の手が奥山に及ぶ前にその口を閉ざしたのだ。  奥山は731部隊に関するなにかの秘密をもっていた。そしてその秘密が明るみに晒《さら》されると、戦後三十年有半を経過したいまも犯人に重大な影響をあたえるのであろう。そのような長年月にわたっていまなお有効に生きている秘密とは何か?  その秘密の真相、いや輪郭でも探り当てれば、犯人像はおのずから浮かび上がってくるのではないだろうか。そして秘密を闇《やみ》の底から引き上げる手がかりは731の元部隊員の間に潜んでいる。  またしてもおもい出されたのは、熱海の神谷老人であった。奥山の居所を探し出すヒントをあたえてくれたのも神谷である。また彼がなにかのヒントをあたえてくれるかもしれない。  おもい立った棟居は、再び熱海に神谷を訪ねた。彼の家へ行く途中、「シュマン」へ寄ってみた。 「ああ、神谷さんここのところお見えになりませんよ」  マスターがカウンターの中でコーヒーを点てながらこともなげに答えた。 「ここのところってどのくらいですか」  高齢でもあり、奥山の前例があるので、棟居は急に不安をそそられた。神谷が奥山と同じ秘密を握っているのであれば神谷のほうを先に消したはずである。だが独り暮らしの老人が行きつけの店に姿を現わさないというのは、気にかかることであった。  その足で急ぎ神谷家に赴くと、ひっそりと静まり返っていて人の気配がない。隣家の窓から前回の訪問時に顔なじみになった主婦が顔を覗《のぞ》かせて、 「神谷さんは、一週間ほど前に入院しましたよ」  と言った。 「入院? 何の病気でどこへ入院されたのですか」  棟居の不安は一層に増幅した。 「なんでも足の神経痛がひどくなったとかで市の温泉病院へ入院したのです」  神経痛と聞いて、棟居はひとまず安心した。それならば、今日明日の命ということもあるまい。主婦から温泉病院の位置を聞いて棟居は足をのばした。  病院は海を見下す山手の高台にあった。入院患者病棟受付で神谷の病室を尋ねると、「別棟の一号室」と教えられた。別棟は病院の最も北側にあり、一号室は、日当りの悪い北面の山側に向いていた。別棟が大部屋だけで構成されており、病院中枢部から最も離れた位置にあるところをみても、VIP患者や特診患者が入院している棟とはおもえない。建物も古びており、患者も老人が目立つ。  ようやく一号室を尋ね当てると、そこは六ベッドの大部屋で、五ベッドが占《ふさ》がっていた。神谷老人は、入ってすぐ右手の壁際のベッドに寝ていた。彼は棟居の突然の再訪に驚いてベッドの上に起き上がった。顔色はさほど悪くないが、前回訪問したときよりも少し窶《やつ》れが目立った。  再会の挨拶《あいさつ》を交してから神谷は面目なさそうな表情で、 「とうとうこんな姥捨山《うばすてやま》へ来てしまいましたよ。いや�爺《じい》捨山�かな」と自嘲《じちよう》の笑いを頬《ほお》に刻んだ。 「すぐ快《よ》くなって退院できますよ」  棟居が途中の店で買って来た果物|籠《かご》を出しながら慰めると、 「ベッピンは、この病院で地獄の一丁目と言われています。そこのベッドが一つ空いているでしょう。おとといの夜、死んだばかりですよ」  神谷は声をひそめて言った。 「ベッピン?」 「別棟の一号室という意味です。ここでは�別品�の意味にも使われています。つまり世の中から別[#「別」に傍点]にされた廃品[#「品」に傍点]というわけです」 「そんなことはありませんよ。神経痛とうかがいましたが、温泉に浸って療養すればすぐに快《よ》くなります」 「私の病気は変形性|脊椎症《せきついしよう》というのだそうです。つまり齢を取って脊椎が曲がり、そのため諸神経が圧迫されて、いろいろな症状が出るということです。寝ても起きても足が痛くてたまりません。もう全快は望めないそうですが、入院してからますます悪くなったようです」 「それは気のせいですよ。気長に根気よく治療をつづければ、必ず快くなるでしょう」 「それまで生きていられるかどうか。仮に快くなって退院できたところで待っていてくれる人もいなければ、面白いことがあるわけでもありませんからね。亡くなった奥山さんが羨しいくらいです」 「実は、その奥山さんについてまたうかがいたいことがありましてうかがったのです」  棟居は、ようやくきっかけをつかんだ。棟居は奥山謹二郎の死因に犯罪性があることおよび731部隊にその原因があるのではないかと推測した経緯を語り、もし心当たりがあるならば教えてもらいたいと頼んだ。奥山の死体の確認を求めたときは、死因については話していなかった。神谷はさして驚いた表情も見せず、 「確認を求められたとき、これは尋常の死にざまではないなとおもいましたよ。あの写真はかなり修整が加えられていましたが、只《ただ》の死に顔ではなかった。いずれ近いうちにあなたが来るんじゃないかとおもっていたのです」 「それではなにか心当たりが……」 「731部隊には心当たりだらけと言ってよいでしょう。あまり心当たりが多すぎて果たしてどの線が尾を引いているのか見当がつかないくらいです」 「しかし、戦後三十六年しても生きている原因となると、限られてくるのではないでしょうか」 「そうですな。楊君里とかいう中国人女性と731との関係が確かめられれば、もっと絞り込めるとおもうのですが」 「楊君里については、資料がすべて中国側なので、いま以上のことはわかりません。中国の協力でこれからなにかわかってくるかもしれませんが」 「実はですね、楊の身許について、私なりに想像したことがあるのです」 「楊の身許についてですって!? どんなことですか」 「私の個人的な臆測にすぎませんが」 「ぜひお聞かせください」  棟居は上体を乗り出した。 「奥山さんの遺句の中にマルタという言葉があったでしょう」 「731部隊のこれまで明らかにされた資料によると、捕虜のことだそうですね」 「捕虜にはちがいありませんがね。捕虜は国際法上で人間として認められていますが、マルタは材木扱いでした」 「だから丸太と呼んだのですか」 「初めは単にマルタと呼ばれていたのです。それが一九四九年十二月二十五日から三十日までハバロフスク軍事裁判においてスミルノフ国家検事の尋問に対して731部隊の幹部川島軍医中将が、実験の犠牲者を呼称する隠語として——丸太と呼ばれていた、丸太即ち材料の意味だ——と答えたことから、丸太が通称になってしまいましたが、これは後日公判記録を日本文に翻訳するとき、マルタという表音と、材料という意味を重ねて丸太という日本語を当てはめたのだとおもいます。731部隊においては、捕虜は丸太ではなく、マルタだったのです。彼らは植物の丸太ではなく、人格を奪われた�非人�でした。生きた人間を材料と呼んだところに731の悪魔性があるのです」  棟居は、息を詰めるようにして神谷のマルタに関する�解説�に聞き入った。彼がマルタについてこれだけ語るにはそれなりの理由があるはずである。神谷は前回の訪問時に731部隊が捕虜を材料に残酷な生体実験を実行した事実を多少知っているが、話したくないと口を噤《つぐ》んだのである。それが老残の果てに病床に臥《ふせ》る身になって、黙秘していたことをにわかにだれかに打ち明けたくなったのであろうか。そしてそれが、楊君里や奥山謹二郎の死につながりがありそうな気配である。 「マルタは関東軍憲兵隊と同特務機関によって捕えられた捕虜でその国籍はロシア人、中国人、蒙古人《もうこじん》、朝鮮人でした。内訳はソ連軍スパイ、ソ連軍兵士、八路軍《はちろぐん》国民軍の幹部と兵士、中国人ジャーナリスト、学者、労働者、学生などの反日分子、およびその家族などでした。731部隊へ送り込まれたマルタに対して、およそ人間の考えつくかぎりのあらゆる残虐な実験が加えられました。いや人間ではなく戦争という異常時に発狂した悪魔による実験です。731が兵器として開発生産したペスト、コレラ、チフス、梅毒スピロヘータ・パリダ、癩《らい》などの生菌をマルタに注射し、あるいは饅頭《まんじゆう》に混入してあたえたり、飲物に入れて飲ませたり、人為的に移植したりしました。  その他、冷凍室に入れての凍傷実験、戦車に閉じこめて火焔放射器を浴びせる耐熱実験、銃殺実験、ガス壊疽《えそ》実験など、まさに�残酷物語�のオンパレードでしたよ。マルタの中には当然女もいました。女マルタは、梅毒を中心とする性病実験の材料にされました」  ここまで語って神谷は一息ついた。長広舌で疲れたらしい。だが彼の目は当時をおもいだして生き返っていた。たとえ悪魔の部隊であろうと、いやそうであればこそ、彼の人生の実質は731に吸い取られ、それ以後の余生は脱け殻のようになってしまったのかもしれない。 「731部隊ではこれらのマルタに十分な栄養をあたえて�飼って�いました。当時物資が欠乏しており、日本国内では国民が満足に食べる物もない時代でしたが、大量の細菌を製造していた731には細菌の好む人間と同じ栄養物が、�兵器�として潤沢に供給されていました。米、肉、卵、砂糖、酒、各種嗜好品、ないものはないくらいでした。  これらの栄養をふんだんにあたえて飼育するマルタに求められたものは、人格ではなく、実験材料としての健康な体でした。マルタを太らせたもう一つの意味は、各種伝染病に対する予防、治療方法の研究のためでした。細菌戦を実施するためには、前線や敵地に細菌をばら撒かなければなりません、それは当然日本軍兵士にも感染する危険性があります。敵が退却し、汚染地域へ友軍が進出すれば、細菌の鉾先《ほこさき》は友軍兵士に向けられます。細菌兵器は治療法が確立していないかぎり両刃《もろは》の剣《つるぎ》なのです。細菌戦を有効な戦術にするためには大量の予防用ワクチンが必要でした。細菌を注射されて発病したマルタには当時731部隊のもつ最良の治療が施されました。こうして回復したマルタは、また次の実験に再使用されるのです。残酷な再生利用《リサイクル》と言うべきでしょう。このようにして回復したマルタは細菌に対して免疫を獲得した防疫学上価値の高いものとなりましたが、さらに強力な菌を注射して結局殺してしまうのです。  またマルタに次から次にペスト菌を移注して、強力なペスト菌を�開発�しました。まずマルタAにペスト菌を注射します。Aは確実にペストに罹《かか》って死にます。しかし死ぬまでAの体内では、血液とリンパ液の中に生じる抗体とペスト菌との凄絶《せいぜつ》な戦いが、つづけられます。抗体との戦いに打ち勝ったペスト菌はその分強力になっています。また人間の抗体も強くなっています。その抗体を含んだAの血清をマルタBに注射し、より強烈なペスト菌に晒《さら》させます。こうして生産されたより強力なペスト菌と抗体をマルタCへと次々に移注して毒性と抗体を鍛え上げるための橋を架けるのです。マルタはそのような毒の架橋を支える橋脚として、健康でなければならなかったのですよ」  初めて聞く、戦慄的《せんりつてき》な話であった。実験材料としてのリサイクルのために、また毒の橋の脚として豊富な栄養をあたえられるマルタは、食肉用の牛豚や白色レグホンよりも哀れである。マルタは人間でありながら、戦争という狂気の下で一方的に人格を奪われてしまったのである。マルタにあたえられた豊富な食物、それが栄養十分であり美味であるほどに、人間の残酷が表象されている。  神谷は語りつづけた。 「終戦時、731が解体されたとき、証拠を残さないために、マルタ全員が大量の青酸ガスを浴びせられて殺され、死体は焼かれて、骨は埋められてしまいました。それまでマルタの死体は隊内に設けられた特別焼却炉の中で灰になるまで焼かれたのですが、終戦処理のために大量のマルタ、約二百人くらいを一度に殺し、その死体を始末しなければならなかったので、焼却炉が使えず、一か所に集めてガソリンをかけて焼いたのです。生き残ったマルタは一人もいないと信じられていました。  しかし、後日になって女マルタの一人が生き残ったという噂《うわさ》が密《ひそ》かに隊員たちの間に伝えられてきました。  マルタに一人でも生き残られたら、731の悪業は世界に知られてしまう。マルタを始末することは隊員たちの自衛にもつながっています。いかに終戦の混乱時でもマルタが生き残ることはあり得ないとおもわれました。しかし、噂は内部の隊員が手引してマルタを逃がしたらしいというものでした。たしかに隊員が手引すれば、必ずしも不可能ではありません」  神谷はその意味を問うように含みのある目を棟居に向けた。 「すると、そのとき生き残った女マルタというのが……」  棟居は、後の言葉をのど元に留めて、神谷と目を見合わせた。神谷の目に含まれたものがうなずいていた。 「し、しかし……」  棟居は、あまりに飛躍的な発想についていけない。 「そうではないという反証はありません。楊君里は五十八歳と聞きました。終戦時は二十二歳です。マルタの年齢は二十代—三十代が圧倒的に多く四十代が最年長で、五十代は一人もいませんでした。女マルタの中には二十代前半の若い女も少なくありませんでした」 「楊君里という女マルタがいたのですか」 「マルタに名前なんかありません。関東軍憲兵隊から731へ送り込まれて来る段階で名前も経歴も抹消され、管理番号を付された実験材料になっていたのです」 「そのとき生き残った女マルタが楊君里となって三十六年経ってから日本へ来たとおっしゃるのですか」 「断定はできませんが、それが私の心当たりと言えば唯一の心当たりです」 「奥山さんと女マルタとはなにかの関係があったのでしょうか」  楊君里が731の亡霊となって来日したことに関して奥山が消されたのであれば、両者の間になにかのつながりがあったことになる。 「実はですね。奥山さんの亡くなられた智恵子という娘さんは婚約していたのですが、その相手というのが、リケッチヤ・蚤《のみ》の研究を担当していた技手でしてね、彼はスピロヘータも受けもっていて、女マルタを検体に梅毒の研究もしていたのです」 「その技手が楊君里、いや生き残った女マルタと接触をもっていたと……」 「彼は女マルタに同情しており、実験に批判的でした。彼は奥山さんの所に来て、マルタはすべて祖国のために戦った人たちで、日本のために戦っている我々となんら変りない人間である。せめて捕虜として国際法に則って扱うべきだ。捕虜を実験材料にする権利はだれにもないはずだと主張していました。731隊員は、すべてがマルタを人間とはおもっていませんでした。教育部の我々にも彼の意見は大変危険におもえたものです。奥山さんもそんなことをまちがっても他の人間に口走ってはいけないと戒めていました。彼が終戦時に日頃同情を寄せていた女マルタを逃がした可能性は十分に考えられるとおもいます」 「その女マルタが楊君里で、奥山さんに会いに来たとすると、だれかにとって都合の悪い事情でもあるのでしょうか」 「さあ、その辺のところは私にもわかりませんがね」  神谷の面に疲労が目立った。単に長時間話したということだけでなく、731の記憶を掘り起こすことが彼の疲労をうながしているようである。 「もう一つ聞かせてください。奥山智恵子……さんの婚約者の名前と現在の消息をご存知でしたらおしえていただけませんか」 「消息は知りません。名前はヤブシタといいます。有能な男で、部隊給費生としてハルピン医科大学に学び、帰隊後技手に任官しました。産婦人科医としても優秀で、隊員家庭の間に出産があると、すべて彼が担当していました」 「いまヤブシタとおっしゃいましたか」  棟居は愕然《がくぜん》とした。 「言いましたが、ヤブシタがどうかしましたか」  神谷が、棟居の反応を見つめた。 「どんな字を書くのですか」 「ヤブは……クサカンムリの藪《やぶ》、シタは上下の下です」 「ヤブ下……奥山さんは、ヤブ下マンションに住んでいた」  棟居は、語尾を口中につぶやいた。ヤブ下マンションを、その所在地の「ヤブ下通り」に因んだものとおもっていたが、それは「藪下」というオーナーの名前から発しているのかもしれない。  奥山のスポンサーは藪下であったのか。警察が初期捜査において当たった「大家」は、オーナーから経営を委嘱されている管理人であった。その際、奥山が入居した経緯について質ねたが、オーナー自身については詮索《せんさく》しなかった。 「大家」は、不動産業者の仲介によって奥山が入居したと言っていたが、事前にオーナーとの了解があったのではないだろうか。すると、奥山謹二郎は遠い青春の幻影を追って同所に終の栖を定めたのではなく、731部隊の縁故にすがって来たことになる。あるいは青春の幻影と731の縁故がたまたま重なったのであろうか。  室内が急に蒼然《そうぜん》と暗くなった。太陽が西の伊豆スカイラインの走る尾根のかげに隠れたのである。 「ここは熱海で最も早く日の翳《かげ》る場所だそうですよ」神谷が寂しげに笑った。  帰り際に神谷は「お土産」と称して「七三一部隊要図」と記されている一枚の地図をくれた。 「これは私の教え子の一人が兵要地誌班に配属されて作製した731部隊の要図です。一部関係者の間だけに複写、保存されてきた731の最も精密な要図で、まだ未公開のものです。私が棺桶《かんおけ》の中までもっていっても仕方がありませんので、刑事さんに預けておきます。いずれなにかの機会があれば世間に発表を求められることがあるかもしれません」  神谷が押しつけた要図が間もなく大変役に立つことになろうとは、棟居も予測しなかった。 [#改ページ]   悪魔のすり替え      1  棟居は改めてヤブ下マンションのオーナーを当たることにした。オーナーは白山二丁目で産婦人科医院を経営している藪下清秀であることが判明した。  行ってみると鉄筋四階建の堂々たる白亜の病院である。産婦人科の他に性病科、皮膚科、泌尿器科を併《あわ》せもっている。院長藪下清秀と表示板に書かれている。棟居は、藪下技手が731において、梅毒の研究をしていたという神谷の言葉をおもいだした。  正面玄関を入ると、外来受付と待合室になっていて、病院特有の消毒薬のにおいの中に多数の患者が待っていた。産婦人科が中心科らしく、赤ん坊連れや、腹の大きい女性が目立った。性病や皮膚病の感染が恐れられるが、一見したところ梅毒やひどい皮膚病をもった患者は見あたらないようである。  病院に向かない名前にもかかわらず、繁盛しているようであり、待合室のソファに坐り切れず立っている者もいる。男の患者の姿はない。待ち患者たちが一様に詮索の目を棟居に集めた。彼女らの目つきは、棟居が悪質な性病でもかかえて転がり込んで来たのではないかと疑っているかのようである。  棟居は、その視線に耐えながら、受付に名刺を出して院長に面会したい旨を告げた。受付の表情が改まって、奥の部屋へ行った。間もなく、五十年輩の頭のうすくなった男を伴って戻って来た。 「事務長の寺尾と申しますが、院長にどんなご用件でしょうか」  彼は名刺を差し出しながら丁重に言ったが、油断ない身構えが感じられる。 「院長がオーナーになっておられるヤブ下マンションで先日老人が死んだ件につきましてちょっとおうかがいしたいことがありまして」 「ああ、あのマンションはたしかに院長が名義だけオーナーになっておりますが、経営はいっさい管理人に任せてあります」  寺尾は、明からさまに迷惑顔を見せた。 「いや管理人ではわからないことなのです。院長と死んだ老人は、戦時中、大陸で特別なご関係があったとうかがいましたが」  棟居は、はったりをきかせた。事務長の顔色が大きく動いた。はったりは見事に的中したらしい。寺尾も院長の経歴を知っている様子である。 「ちょっとお待ちください」  寺尾は、慌しく奥へ姿を消した。待つ間もなく引き返して来た彼は、急に低姿勢になって、 「院長がお会いになるそうです。どうぞこちらへ」と自ら先に立って案内した。  藪下は病院の奥にある居住区の応接間で待っていた。一見六十歳前後の白髪の目立つ気品のある老人である。和服の着流し姿でいるところを見ると、患者の診療は他の医者にまかせて、病院の経営面だけをみているらしい。あるいはマンション同様、名義人だけになっているのか。  藪下はもの静かな口調で初対面の挨拶をした。棟居の来意を聞くと、ゆっくりとうなずいて、 「たしかに奥山さんとは731部隊で親しくしておりました。突然あんな風に亡くなられて、茫然としていたところです。731の記憶は忌まわしいものばかりですが、その記憶を分け合った仲間の死は辛く悲しいものです」 「奥山さんが、あなたが所有するマンションに入居されたのは、偶然だったのですか。それとも……」 「数年前、たしか五十二年の二月の初め、保健所通りを用事があって車で通りかかりますと、奥山さんが高村光太郎のアトリエ跡の表示板にじっと見入っていたのです。後ろ姿に記憶があったので、車を停《と》めて近づくと、やはり奥山さんでした。終戦で別れてから三十二年ぶりでした。私は731の記憶はおもいだすのも嫌だったので、元隊員たちの集まりにはいっさい顔を出しませんでした。久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》してその後の消息を質ねると、奥山さんは、奥さんにも亡くなられて、天涯孤独の身になったので、遠い昔の初恋の人である高村智恵子ゆかりの地の近くに住もうとおもい、手頃な住まいを探しているのだということでした。  幸い、私がそこと目と鼻の先に古ぼけたマンションを所有していたので、よかったら来ないかと誘いますと、奥山さんは大層喜ばれまして、ぜひ頼むということだったので、入居してもらったのです」 「管理人は不動産屋の斡旋《あつせん》と言ってましたが」 「私は731での経歴を隠しておりましたので、奥山さんとの特別なつながりを知られるのが嫌で、そういう形にしたのです。家賃や権利金等いっさいもらっていません」  その731での研究を基礎にして、藪下の今日の成功があるのであろうが、それは棟居が言うべきことではなかった。 「奥山さんは、大学のパート講師と翻訳家と自称しておられたようですが、それは事実ですか」 「私には特に仕事はもっていないが、多少の蓄えと年金があるので、生活には困っていないと言ってました。まんざら強がりでもなさそうで、再会したときも尾羽打ち枯したといった体には見えませんでしたね」 「先生が多少、生活の援助をしたということはございませんか」 「まあ、それは援助と言えば援助でしょうな。ボロではあっても、とにかく住める住居を無料で提供したのですから」 「いえ住居ではなく、金銭面の援助です」  棟居は、奥山の定収入の源が藪下ではないかと疑っていた。 「金銭ですか、いえ、していません。奥山さんが窮迫していればしてあげたかもしれませんが、ご本人に余裕がありましたので、かえって失礼になりますのでね」  藪下の表情は特に作為したようにも見えない。 「奥山さんは無職のようであったにもかかわらず、年間、百万円前後の定収入があった模様なのです。それについてなにかお心当たりはありませんか」 「年金ではないのですか」 「いや年金以外にです」 「さあ、とにかく戦後別れたまま、たがいに音信不通だったのでわかりませんね。それがどうかしたのですか」 「我々は、奥山さんに定期送金していた人物が、彼の死因に重大な関係をもっていたのではないかと考えております」 「重大な関係といいますと?」  藪下の面に不安の色が浮かんだ。奥山の死因に不明な点があり、捜査が開始されていることは当然、藪下も知っているはずである。 「つまり、奥山さんは、だれかの重大な秘密を握り、それをタネに恐喝していたのではないかと。そしてその秘密とは731部隊から発しているのではないかと我々は考えているのです」  穏やかだった藪下の表情が大きく動いた。棟居は追い打ちをかけるように楊君里から発したこれまでの捜査の経緯を話して、 「そこで先生が奥山さんや楊君里の死因についてなにかおもい当たることがありましたならぜひお聞かせいただきたいのです。楊君里は終戦時に生きのびた女マルタだったのですか」  と一気に詰め寄った。藪下は束の間ためらっていたようであるが、太い息を吐いて、 「そこまでお調べでしたら、私の知っていることはすべてお話しいたしましょう。ご指摘のとおり、楊君里は、その女マルタです」  そのとき棟居の前に幾重にも立ちはだかっていた壁の一つが音をたてて崩れ落ちたように感じた。遂に楊君里の身許が判明したのである。それは�正体�と言ったほうがよいだろう。彼女は731部隊の亡霊であった。三十余年前、生体実験をされた三千体近いマルタの無量の怨みを託されて日本へ来たのだ。彼女の正体を知った731部隊関係者は困惑したであろう。特に731での残虐無比な実験を踏み台にして、今日名利を得ている医学者や病理、薬理、細菌、植物、動物関係の学者は、その亡霊の出現に戦慄《せんりつ》したかもしれない。生体実験に批判的であったとは言え、藪下もその一人である。 「なぜ楊君里だけ救ったのですか」 「終戦時の混乱中においてもマルタの監視は厳しく彼女一人を救うために数人の同志の命懸けの協力が必要でした。しかし、彼女を危険と困難を冒して、救ったについては、それ以前に複雑な事情が伏在しているのです」  うかがいましょうと、棟居は目で促して藪下の前に膝《ひざ》を進めた。  藪下の話したことはまことに信じられないような内容であった。 「マルタがソ連赤軍や中国軍将兵、情報部員、抗日運動に関係して逮捕された中国人の知識人や労働者によって構成されていたことはご存知のようですね」  藪下は話しはじめた。棟居がうなずくと、 「ところが実際は必ずしもすべてが敵軍の将兵や抗日分子ではなかったのです」      2  藪下の語ったところによると、——マルタの中には戦争にはなんの関係もない一般の中国市民が欺《だま》されて連れられて来たケースがある。中には窃盗などの軽い罪に問われた犯罪者もいた。彼らは自分らがいつの間にか背負わされた恐しい運命も知らず、731部隊へ送り込まれて来た。その中に楊君里がいたのである。彼女は聡明《そうめい》な娘で、簡単に欺されるはずがないのに、少し前に行方不明になったという弟と婚約者を探していて、731に連れ込まれてしまったのである。彼女は若く美しく、女マルタの中で目立つ存在であった。そのせいか、彼女はマルタの中でも特別扱いされていた。  楊は妊娠していた。731にとって妊娠している女マルタは貴重な検体であった。楊は片言ながら日本語がしゃべれた。彼女は731に送られてから、自分の運命を悟ったらしく、覚悟を定めた体であったが、隊員たちに自分はどうなってもいいから、お胎《なか》の赤ん坊だけはたすけてくれと訴えていた。  だがどんなに訴えても、嬰児《えいじ》に生きるチャンスはなかった。胎児は女マルタの一部にしかすぎず、人間ではない女マルタの付属物であったのだ。  だがここにだれも予想しなかった事件が発生し、女マルタと胎児の運命が大きく変ったのである。藪下の上司で、野口班に所属していた井崎良忠技師夫妻は結婚後十年子宝に恵まれなかったが、昭和十九年春ようやく夫人に懐妊の萌《きざ》しが現われた。井崎はことのほか喜び、夫人の出産の日を待ちこがれた。井崎家は官舎が奥山家と隣り合わせで両家共家族ぐるみの交際をしていた。井崎はなかなかの文学愛好家で、特に奥山の影響をうけて、高村光太郎の詩に傾倒していた。そして男の子ならば光太郎、女の子ならば智恵子と名前を決めていたほどであった。  こんな事情があったので、井崎は同時期に妊娠していた楊君里に同情を寄せて、彼女を野口班のマルタとして確保しながら身二つになるまでは残酷な実験材料にならないように、工作をしていた。  特設監獄に�飼育�されていたマルタを、各班研究室から研究員が出張ってきて、独房を一つ一つ見て回り、自班の研究に適《む》いていると判断したマルタを予約《リザーブ》する。予約されたマルタは、その研究室に所属し、他班は勝手に手をつけられなくなる。中にはマルタの品定めもせずに、どんな体型でもよいから、健康なマルタを適当に見つくろって十体ほど送れなどと、鮨《すし》かそばの出前でも注文するように電話で予約をしてくる班もあった。  このような状況下にあったので、楊君里を野口班の継続実験材料として確保しておくのは難しいことではなかった。  井崎夫人と楊君里はほとんど同時に出産した。  だが井崎夫人が娩出《べんしゆつ》した胎児は首に臍帯《せいたい》が巻きついて死んでいた。待ち望んでいた子供が死んで生まれたので、井崎は大いに失望したが、時を同じくして楊君里が健康な女児を出産したところからここに奇想天外な嬰児すりかえの着想が閃《ひらめ》いたのである。  楊君里が生んだ子供には、そのままではどう考えても生きられるチャンスはない。だが井崎の子とすれば話はべつである。楊君里は聡明な女性であり、井崎は同情を寄せている間に、彼女をマルタではなく、人間として見るようになっていた。  井崎はまず自分の着想を班長の野口少佐に打ち明け、次いで信頼している部下で細君の担当医でもある藪下に話した。ここに前代未聞の嬰児すりかえの計画が進行し始めたのである。  まず楊の説得が始められた。実験と称して彼女をマルタを収容している特設監獄から、野口班の研究室に連れて来て、井崎と藪下が説得にあたった。楊君里は最初は自分の嬰児を取り上げられることに抵抗したが、それ以外に子供をたすけるすべがないのだと説かれてようやく納得した。 「楊君里は泣いていました。井崎さんはおまえの赤ちゃんは、私たちの子供として必ず幸せにしてやるから安心しろと言いました。日本人として日本へ連れ帰って最高の教育をうけさせ、幸福な結婚をさせてやる、だからおまえの子はここで死んだことにするんだと説く井崎さんの頬《ほお》も濡《ぬ》れていました。どんな形であれ母親の胸から赤児をむしり取るのはむごいことでした。楊君里が納得した以上、急がなければなりませんでした。  計画によると、楊君里が授乳中、どうせ生きるチャンスがないのだからと自らの手で殺すことになっています。それには、死産児がまだ新しいうちでなければなりません。  野口班の研究室は、その形状からロ号と呼ばれる、731部隊の中枢施設が集中している本部の中にあり、四六時中憲兵が詰めている衛兵所の前を通らなければ出入できません。井崎夫人のいる家族診療所は柵外にあり、憲兵の目をかすめて、死児を搬入することが最初の関門でした。井崎さんは標本保存用のガラス管、通常ホルマリンに臓器を浸して保存する直径四十センチ、高さ四十センチくらいの容器に死児を入れ、覆いをかけて衛兵所の前を通過し、総務部建物二階の左端にあった標本陳列室へ行くような振りをして首尾よく野口班研究室へ運び込みました。  死児が運び込まれてから、その夜七時ごろ実験に必要であると称して、私が特設監獄から楊君里の嬰児を運び出しました。いよいよ連れ出すとき、楊君里はよく寝入っている嬰児に何度も頬ずりをしました。私が起こすと面倒だからと制止しても聞きません。嬰児の頬が楊の涙で濡れてしまいました。  きりがないので、私は奪い取るようにして楊の手から嬰児を抱きかかえました。それが母子の今生の別れでした。暗い特設監獄の廊下を嬰児を抱いて小走りに歩きながら、私は戦争とは本当にむごいものだとおもいました。首尾よく研究室へ連れて来た嬰児はまだよく眠っていましたが、その頬は母親の涙で濡れていました。その涙はいずれ乾いても、母親が嬰児に託した悲しみは、嬰児《えいじ》が一生背負っていかなければならないものでした。  その後、嬰児を柵外へ運び出すという最大の難関が横たわっていました。今度は、運び入れるときとちがって生きているのですから一声泣かれても万事休すです。また標本を夜間外へ運び出すこともないので、死児を入れてきたガラス管を使用することもできません。ここは一同の最も苦心したところですが、結局井崎さんが果物籠に入れて運び出すことになりました。  最大の緊張を強いられる時間でしたが、憲兵は顔なじみの井崎さんに、怪しみもせずに通しました。楊の嬰児はその夜の中に井崎夫人の胸に抱かれたのです。  嬰児の柵外運び出しが成功したのを確かめてから、私はその夜深更、井崎さんの死児をさも生きているように抱いて楊の許へ返しました。翌朝、監獄の看守は、楊の嬰児が死んでいるのを発見しました。楊はシナリオ通りの口上をしゃべり、看守はなんの疑いももたずに上司に報告しました。その死体を野口班が実験に必要だからという口実でもらいうけました。こうして嬰児のすりかえはだれからも疑われることなく成功したのです」  藪下は深い吐息をついて口を憩《やす》めた。目は三十余年の過去を溯《さかのぼ》っているように遠方を見ていた。焦点の定まらない視線が、戦争というどこにも出口のない過去の死海を漂流している。神谷が�土産�にくれた要図のおかげで、棟居にはその場面の見当が、目のあたりにするようにつけられた。 「その赤ん坊は、いまどうなったのですか」  棟居はうながした。 「井崎さんとも音信不通になったのでどうなったか知りません。元気でいれば、もういい母親になっているでしょう」  生まれたのが昭和二十年であれば現在三十六歳である。子供が二、三人いてもおかしくない年齢である。 「井崎さんの出身地はご存知ありませんか」 「三重県と聞きましたが、それ以上は知りません」  ただ三重県ではあまりにも漠然としていた。 「奥山さんは知らなかったですか」 「彼も知りませんでした」 「しかし親しかった隣人の、自分の娘と同じ智恵子と名づけられた子供の行方に関心がなかったはずはないとおもうのですが」 「私もそうおもって何度も質《たず》ねたのですが、知らないということでした」 「それは本当に知らなかったようですか。それとも知っていながら知らない振りをしていたようでしたか」 「どうも知っていながら知らないと装っていたようでしたね」 「ということは、赤ん坊、いや智恵子の行方を知らせたくなかった事情があったということですね」 「そうだとおもいます」 「それはどんな事情だとおもいますか」 「おそらく、智恵子は、自分の出生の秘密を知らずに幸せな生活を送っているのだとおもいます。きっと自分の娘の生まれ代わりのようにおもっている奥山さんは、智恵子の出生の秘密を知っている人間をできるだけ彼女に近づけたくなかったのでしょう」 「なるほど。そこへ楊君里が姿を現わしたというわけですか」 「たしかにいまさら楊君里に母親だと名乗られても当惑するばかりだったでしょう。しかし我々すら知らない智恵子の消息を楊が中国にいて知ったとはおもえない。楊はおそらく本で古館君の消息を知って懐しさに駆られて訪ねようとしたのではないでしょうか」 「その彼女がなぜ死ななければならなかったのですか」 「それは私にはわかりかねます」 「古館さんは楊君里とどんなつながりがあったのですか」 「彼は第一期の少年隊員でした。少年隊員は一年の基礎教育が終ると、各班へ実習勤務に配属されました。古館君は、私の班に配属されて私に従ってマルタの実験にも立ち会ったので、楊君里を知っていたのです。彼と楊は年齢がいちばん接近していたので、たがいに親しみを覚えたようです。嬰児すりかえのときも古館君がいました」  そんな因縁から古館は智恵子抄を指して「智恵子と楊君里」の関係を訴えようとしたのだろう。 「終戦時にマルタが全員殺されたということですが、楊君里はどのようにして救ったのですか」 「終戦のときの731の光景は、いまだに悪夢を見ているような気がします。いまでも時々|魘《うな》されることがあります」  藪下は、悪夢を再現するような表情で再び語り始めた。  ——昭和二十年八月九日午前零時、満州東北部は暗澹《あんたん》たる雲におおわれ、例年になく冷たい長雨が残っていた。前日八日対日宣戦布告をしたソ連軍はその闇をついてソ満国境を越え一気になだれ込んで来た。満州西部の満州里、ノモンハンをはじめとして、東北部の間島省の琿春《ぐんしゆん》、牡丹江省の綏芬《すいふん》河、東安省の虎頭からメレツコフ元帥|麾下《きか》の沿海州方面軍の主力、また黒河省の孫呉(731部隊の支部があった)|※[#「王+愛」、unicode74a6]琿《あいぐん》からプルカーエフ大将率いる大機甲化部隊が進攻して来た。それを阻止すべき日本陸軍最強の定評があった関東軍は、すでにその精鋭を南方戦線に回されて張子の虎のようになっていたのである。  ハルピンや新京は、ソ連軍の破竹の進撃から辛うじて逃れて来た関東軍各敗残部隊の人馬車両でごったがえしていた。八月十一日朝731部隊全員に撤退命令が下った。同時に731の秘密を闇に葬るための膨大な証拠の隠滅作業が始まった。焼却炉は、処理すべき各種実験動物、昆虫、生菌、標本、研究データ、書籍、書類などで麻痺《まひ》してしまうほどであった。  一方では総務部長太田大佐の指揮の下に、資材部の倉庫という倉庫から保存のきく各種軍需物資、食料品、酒、かん詰、また大量の貴金属の山の軍用貨車への積込作業が行なわれていた。  731部隊には喧噪《けんそう》と怒号があふれ、各所から焼却炉からあふれた資料を焼く炎と黒煙が上がっていた。  だが731部隊にはまだ処分しなければならない最大の証拠が残っていた。それは特設監獄に収容されている二百人以上のマルタである。彼らの一人たりとも生き残らせるわけにはいかなかった。  マルタを収容する特設監獄は左右対称《シンメトリカル》の設計になっていて、男用が七棟、女用が八棟と呼ばれている。全棟に通気用の導管《ダクト》が配管されていたが、一朝ことあるときには、このダクトのバルブをひねり全房に青酸ガスが充満する仕掛になっていた。  731部隊がこの地に造営されてより、最初にして最後のバルブを開くときがきたのである。ダクトを伝って青酸ガスが全房をかけめぐり、二百人を越えるマルタの大多数が数分で死んだ。ガスで死にきれないマルタは拳銃で�止どめ�を刺した。  殺すのは簡単であるが、死体の始末が大仕事であった。焼却炉は完全に麻痺状態である。止むを得ず内庭に死体を積み上げて、石油やガソリンをかけて燃やした。だがこのような焼き方では、熱が平均に行きわたらず、ほとんどの死体が生焼けとなった。生焼けのまま穴を掘って埋めていると、指揮官が咎《とが》めて、もう一度掘り出して完全に焼けと命じた。  隊員たちはせっかく埋めた死体をまた掘り出した。  隊員の一人が盛大な悲鳴をあげた、彼の手には千切れた死体の腕が握られていた。死体の腕を引っ張ったはずみにスポッと抜けてしまったのである。  731の構内には、死体を焼く異臭がたちこめ黒煙が空を覆った。 「そのような状況の中で、どうして楊君里一人が生き残れたのですか」  棟居は731解隊時の酸鼻な様に息をのみながら疑問の核心について質ねた。 「井崎さんが楊君里だけは�智恵子�の母親であるからどうしても救いたいと言いまして、二人で知恵を絞り、マルタの全員処分が決定する直前に、実験用検体として野口班へ連れて来ておいたのです。楊君里は、野口班に所属する検体として野口班の�所有物�でした。青酸ガスによるマルタの一斉処刑が終った後、楊君里にあらかじめ用意しておいた女子軍属の服を着せて隊外へ連れ出しました。撤収作業で混乱をきわめているときだったので、だれにも怪しまれずに脱出できました。  楊君里とは隊の柵の外で別れました。運があったらまた会えるだろうと、手を握り合って楊は逃れ去って行きました。日本の敗戦直前とは言え、まだその地域一帯は日本軍の支配下にあって、楊に嬰児を託すわけにはいきませんでした。彼女も嬰児を井崎さんに預けておいたほうが安全と判断したようです。楊君里を逃がした夜あたりからソ連機が偵察に来て、照明弾を落とすようになりました。真昼のように照らし出される、悪魔の根拠地とも言うべき731部隊の諸施設を目のあたりにして、我々は遂に731の終焉《しゆうえん》がやってきたことを実感したのです」 「楊君里が死んだとき、そばにレモンが転がっていたのですが、なにかいわれがあるのですか」 [#挿絵(img¥206.jpg)] 「井崎さんは�智恵子�と名づけられるはずだった死児との訣別《けつべつ》に際して、レモンを一個添えたのです。レモン哀歌のレモンに因んだのでしょう。夫人が分娩したとき、胎児はわずかに生きていました。レモン哀歌の一節の——深呼吸を一つしてあなたの機関はそれなりに止まつた——ように、井崎さんの胎児はこの世でただ一回かぎりの深呼吸をして死んでいったのです。731には�解熱剤�としてたくさんのレモンが蓄えられておりました。井崎さんはその中の一個を死児に添えました。楊君里は、我が子の身代わりに戻されてきた死児に添えられていたレモンを我が子の形見とおもったようです」 「そんな悲しいいきさつがあったのですか。ところで奥山さんの死因に戻りますが、楊君里の来日が、からんでいるとお考えになりますか」 「さあ、その点についてはなんとも申し上げかねますね」 「楊君里の死因調査が奥山さんに及ぶと都合の悪い人物についてお心当たりはないでしょうか」 「ちょっとおもい当たりませんね」 「井崎さんが健在で、智恵子さんの出生の秘密を秘匿するために奥山さんの口を塞《ふさ》いだということは考えられませんか」 「ちょっと飛躍しすぎるようですね。それに出生の秘密を隠すためであれば、奥山さんより、嬰児すりかえを直接実行した私の口を塞ぐはずでしょう」 「そのとおりですね。すると奥山さんはなにか他の原因から命を縮められたことになります。しかし、私はそれは731から端を発しているにちがいないとおもうのです」 「どうしてそのようにおもわれるのですか。もう戦後三十六年も経過している。その間に731とは関係ない後半生を生きています」 「いや奥山さんにとっては人生の実質は731で終っているのです。終戦後の人生は、余生のようなものです。世間を憚《はばか》ってひっそりと生きてきました。奥山さんが口を封じられなければならないような秘密は、731以外にあり得ないとおもうのです」 「ずいぶんと自信がおありのようですが、奥山さんが戦後何をしてこられたか全部調査ずみなのですか」  藪下は皮肉っぽい口調になった。 「いや現在、調査中です」 「それでしたらそんなことは断言できないでしょう。現に私自身も731の記憶を断ち切って終戦後、生まれ変ったように生きてきましたよ。私にとって731は実質どころか悪夢でした。悪夢は一刻も早く忘れるべきです」  藪下のように731の経験を基礎にしてその後の人生を積極的に生きてきた者もいるだろう。だが731から背負わされた十字架の重みに押し潰された者も少なくない。彼らは生涯それを背負い、731に縛りつけられた鎖を引きずりながらその後の人生を生きていく。  奥山は後者のタイプだとおもった。そうでなければ老残の孤独の身を遠い青春の幻影の地に託そうとするはずがない。731を踏まえて成り上がった者と、それに押し潰された者、それぞれの隊員にとって731はべつの意味をもっている。  棟居は、藪下の許を辞した。藪下のおかげで、楊君里の身許は判明したが、奥山の死因との相関関係は依然として五里霧中である。そしてさらに新たな謎《なぞ》が追加された。楊君里が井崎良忠に託した「智恵子」はどこにいるのか。井崎と智恵子は、楊君里と奥山の死につながりがあるのか。  楊君里が絶望のマルタとして嬰児の頬にこすりつけた悲しみの涙は、「智恵子」の心にどのような影を残しているか。  棟居は、深く分け入るほどに戦後三十年有半の風化に影響されず深く抉《えぐ》られてくる731部隊の傷痕《きずあと》に立ちすくみ、捜査の方角にためらいを覚えるのであった。 [#改ページ]   ワルプルギスの宴      1  奥山謹二郎不明死事件の捜査は膠着《こうちやく》した。最も期待された経歴調査も、住民票に記載された居住地を次々に溯っていったが、前の住所がすべて住人の出入りの激しいアパートであり、中にはアパートそのものが取り壊されていたり、オーナーが代っていたりして、局面を開くような聞込みは得られなかった。どの地においても共通していたことは、奥山が近所の人たちと交際せず、ひたすら閉鎖的に生活していたことである。横浜においては個人病院の事務、新宿ではある私立高校で事務官として勤めていたことが判明したが、いずれも当時の人がほとんど替ってしまっていて、はかばかしい成果は得られなかった。  当時の奥山を知るごくわずかな人たちも、彼の経歴についてはまったく聞いておらず、731部隊の元隊員であることも知らなかった。  奥山は、復員後二年間はどこに暮らしていたか不明であったが昭和二十二年九月八日に東京世田谷区役所に戸籍再製届を出し、同区北沢二—一三×番地(現在代沢二丁目)に住所地を設定している。この地を振り出しに以後戸籍の附票に従って住所を転々としているが、前橋に居住していたときのように、住民登録もせずに、いわゆる幽霊住民として住んでいた土地があったかもしれない。  転入や転出届は住民基本台帳法により、前者が転入をした日から十四日以内に、後者が転出先および転出予定年月日を市町村長に届け出なければならないことになっているが、必ずしもすべての者がその規定を忠実に守っていない。よく移転をする者は、途中の転入届や転出届を省略して、新々住所へ跳躍する場合も多い。転々として本籍地から終の栖へ跳躍する者もある。奥山がこのような跳躍をしていれば、その間の生活史はまったくわからない。  奥山の定収入はいつごろの時期から始まったのかわからないが、一致した証言は生活にそれほど窮迫しているようには見えなかったというところから、引揚げてからすでに定収入は確保されていたようである。  その長い期間いったいだれがなぜ彼の定収入を支えたのか。謎は依然として解けない。藪下を訪れて数日後、一通の郵便物が棟居の許へ配達された。その内容は、手紙と一冊のタイプ印刷の薄い小冊子である。手紙には次のように書かれてあった。  ——拝啓、その後お元気に捜査におはげみのことと推察申し上げます。さてこの度同封機関誌の要領で731部隊の戦友会全国大会開催の運びとなりましたので、捜査のなにかのご参考になればと念じ一部お送り申し上げます。なおこの機関誌は会員以外には配られておりませんので、私から入手されたことはご他言無用にねがい上げます。捜査が早く結実されることを心より祈念しております。敬具——  差出人名「中西恵一」の文字を読んで、棟居は、古館豊明の葬儀の帰途出遇った、731元少年隊員の四人組をおもいだした。中西はその一人で、その後神谷の住所などを教えてくれた。過去を語りたがらぬ元隊員の中で比較的好意的に協力してくれた人間である。  機関誌の表紙には「房友」とある。これが731元少年隊員が中心となってつくった「房友会」の機関誌なのであろう。全二十五ページの薄い冊子の中には会員が寄せた近況報告やら随筆やらが載っている。発行元の表示もなく発行責任者や事務局の所在地を示す奥付もない。  全国大会の要旨は次のとおりに記載されてある。  ——房友会第×回全国大会開催要項  一、趣旨。戦後三十六年、共にあの北満の地で熱い青春を分かちあった同志が一堂に会し、たがいの健勝を喜び昔日を偲び尚一層の親睦《しんぼく》と今後の弥栄を図るを目的に、会員、御家族一同奮ってお集まり下さい。  二、開催地。長野県松本市|美ケ原《うつくしがはら》温泉ホテル。  三、開催日時。昭和五十六年十月十日午後六時にホテルへ集合。  四、大会行事。  ㈰慰霊祭(物故者紹介、読経など)。  ㈪総会(会長、幹事長挨拶、メッセージ・祝電披露、会員近況報告、経過会計報告、提案事項審議、次期大会開催の相談等)。  ㈫親睦大会(会員隠し芸大会、カラオケ大会)——  ここまで読んだ棟居は、中西が「全国大会」に出てみないかと暗に誘いをかけてきたのではないかとおもった。  全国と銘打つからには731元隊員がかなり集まって来るであろう。楊君里と奥山謹二郎の死因を解明する手がかりもあるいはそこで拾えるかもしれない。 「美ケ原か」  棟居は、語感の美しい未知の土地を想像した。それは731部隊の亡霊たちの集合と言ってもよいだろう。  棟居はファウストが悪魔と宴を張ったという「ワルプルギスの夜」と重ね合わせた。      2  第731部隊全国大会開催地の美ケ原温泉は、松本駅の東郊約六キロ、松本平《まつもとだいら》の東縁にあり、山辺《やまべ》、御母家《おぼけ》、藤井《ふじい》温泉の総称である。かつては山辺温泉郷と称《よ》ばれていたのが、全国的な有名観光地にあやかる周辺部の地名変更の趨勢《すうせい》の中で、美ケ原温泉郷と改称した。このほうが俗っぽくてなにやら安手の新興団地のような地名であるが、たしかに通りはよい。  十月十日午後、棟居と神谷は松本駅に下り立った。神谷は療養の甲斐《かい》あって歩行可能なほどに回復したので、全国大会に出席するためにやって来たのである。棟居は彼の介添えという形で同行して来た。例の少年隊四人組のだれかが出席しても、彼らは棟居との関係を秘匿したがっているので、素姓が露顕するおそれはあるまい。  松本駅前の広場に立って駅を振りかえるようにすれば、北アルプスの山脈が巨大な岩襖《いわぶすま》のように立ちはだかっている。よく晴れた秋の日で、山脈は蒼《あお》く烟《けむ》り、空の高みを走る稜線を縁取った冠雪によって山体と空が区別されていた。駅前は、レストラン、土産物屋、パチンコ店などが軒を連ね、個性がないが、圧倒的な山の景観が、北アルプスの登山基地としての山の都らしい雰囲気を打ち出している。連休を控えて登山者の姿も多い。特大のザックにピッケルをもった若者たちの姿が、遠景の山を背負ってサマになり、この街の性格を物語っている。 「見事な山ですな」  棟居は一際威容を誇るピラミッド型の山体を指さした。 「ああ、あれは常念《じようねん》という山で、北アルプスの前衛ですよ。穂高《ほたか》とか槍《やり》とかは、あの山の奥に隠れています」  土地鑑のあるらしい神谷が言った。 「ほう、あれが前衛ですか」  前衛峰の山容にすら圧倒された棟居は、その奥山の威容を想像した。 「これでわしも若いころは、穂高へ登ったことがあるのです。いまでは車で上高地《かみこうち》まで入れますが、当時は徳本《とくごう》越えと言いましてな、あの前衛の山脈を歩いて越えて行ったものです」  神谷が昔をおもいだす表情をした。若いころ北アルプスの峻峰《しゆんぽう》を踏破した彼が、茫々《ぼうぼう》たる歳月の経過の後、杖《つえ》にすがって曾遊《そうゆう》の地に戦友会に出席するために戻って来たのである。その感慨たるや杳渺《ようびよう》たるものがあるだろう。  二人は駅前から構内タクシーを拾った。松本の市街を出ると、北アルプスの山脈はさらに画然と松本平の西方に聳立《しようりつ》してきた。目指す美ケ原温泉郷は北アルプスと反対の東方にある。美ケ原は松本市の東方、筑摩《ちくま》山地の一部で、二〇三四メートルの王《おう》ケ頭《とう》を中心に二千メートル前後の溶岩台地となっている。高原の表面は一面の草原で、その一部が牧場になっている。松本平を隔てて北アルプスと相対《あいたい》し、その絶好の展望台である。白樺《しらかば》林に囲まれた湖や、放牧の牛馬が遊ぶ牧歌的草原のイメージがその優美な地名にうながされて特に女性に人気が高い。  棟居は出かけて来る前にざっと目を通した案内書の文言をおもいだしながら、優しく美しい高原の登山口で催される731部隊の戦友会の皮肉な対照をおもわないわけにはいかなかった。  べつにどこで開催してもいいようなものであるが、731と美ケ原のイメージがなんとなくそぐわないような気がしたのである。神谷から見せてもらった全国大会案内状の文言も現代離れしたものであった。  「清涼の候光陰矢の如しとか、激動に渦巻く約四十年の歳月が流れた今日、いつも心に残るものは、祖国日本の為に青春を賭《か》けた大義の実践に対する行動力は、絶忠に燃えた当時の連想を深める時、感無量になるものがある。かつては郷関を出でし我々は名実共に第七三一部隊員として北満の広野に立ちて、皇国の生命線を守り時あたかも国境風雲急を告げ我が石井部隊の精兵はノモンハン又は運命の南方作戦に出動、各その功績極めて顕著なるものがあった。併《しか》し、長期戦に亘《わた》り武運つたなく世界に冠たる帝国陸海軍八十年の運命の涙の歴史を永久に締《と》じたのである。日本人として有史以来汚辱的あの悲しみも今は過去となり国民は再建の為に努力し現在の経済日本を築いたのである。併し、国際的見地においてその情勢を展望する時、極めて重大なる秋《とき》に直面していることを痛感せざるを得ないのである……」  だが同時に731の生存者の、時代の風化をうけないような一徹な文章である。 「お客さん、今日は美ケ原温泉ホテルでなにか会合でもあるのかね」  それぞれの感慨に浸っていた二人に運転手が背中越しに話しかけた。 「今日は同じホテルへ行く客が多いのかね」  棟居が質ねると、 「無線がホテルの名前をちょくちょく言うのでね」と運転手は答えて、明日はビーナスラインを通って美ケ原観光に行かないかと勧誘を始めた。  運転手を適当にいなしている間に、車は目指すホテルへ着いた。地上七階の近代的な洋式建物である。ホテルの前に立って驚いたことは、「関東軍第七三一部隊第一回全国大会様」と大書された案内板が玄関に堂々と立っていたことである。  房友会の全国大会はこれまで何度も各地で開かれている。今回の大会は房友会が発展したものであろうが、「第一回」と銘打っているところをみると、終戦後世を憚《はばか》ってきた731部隊が初めてその素面を晒《さら》したのであろうか。  ホテルの従業員に案内されて通った大広間には、すでに初老以上の男たちが二十人ほど集まり、手を取り合い、あるいは車座になり、また肩に手をかけ合って再会を喜んでいた。  大広間の正面床の間には大きな日章旗が飾られ、壁に「関東軍満州第七三一部隊第一回戦友会次第」と墨書した紙が貼《は》られて、連休の陽気に浮かれ立っているようなホテルの雰囲気からかけ離れた小宇宙を形成していた。  広間の入り口に和机が出され、二人の「受付」が座っていた。その中の一人と顔を見合わせて棟居はハッとした。中西であった。中西は目顔で合図を送り、直ちに素知らぬ顔で、神谷に向かい、 「これはようこそご遠方をいらっしゃってくださいました。今日は少年隊の仲間も、もう何人か来ていますので、みんな喜ぶでしょう」  と挨拶《あいさつ》した。 「やあ中西君か、何年ぶりかな。元気そうでなによりだ。これはわしの付添いで来た甥《おい》の棟居君だ。よろしく」  神谷がすました顔で紹介するのに、中西がさりげなく調子を合わせて目の奥で笑った。その目が四人組が来てもうまく言い含めてあるから心配するなと言っているようである。  広間の中に進むと、すでに来ていた連中が数人懐しそうに集まって来た。みな初老の男たちであるが、広間の中では最も若い年齢層である。いずれも神谷に教えをうけた元少年隊員であった。その中に、四人組の一人|楢崎《ならざき》がいたが、彼も棟居に目顔でうなずいただけであった。  そこはすでに棟居の介入できない懐旧の世界であった。三十余年の歳月が一瞬の間に縮まり、一同の意識は、北満の地に戻っていた。臆面《おくめん》もないセンチメンタリズムの世界でありながら、青春の母校の同窓会とはちがう雰囲気であった。手を取り合いただ滂沱《ぼうだ》と涙を流している感傷過激派もいたが、懐しむべき過去に一種の後ろめたさがあるのを払拭《ふつしよく》しきれない。それは共犯意識と呼んだらよいであろうか。  胸を反らして昂然《こうぜん》と、我々は何ものにも恥じることはない。国のため、国家の命令に従って遂行したのであると言う者もあったが、彼の不自然な強い姿勢に、後ろめたさからの反動があるようである。  共犯者の連帯は強い。731という暗黒部隊に籍をおいた連帯意識は戦後三十六年してもなお緩まない一同を結ぶ紐帯《ちゆうたい》となっている。同じ罪の縄にくくりつけられた囚人が終戦によって釈放され、再び一堂に会した懐しさと言おうか。共に所属した組織の評価は問題ではなく、共有体験の強烈さが、いまなお彼らを結びつけているのである。  定刻となり、幹事が開会を宣した。五十名前後の出席者が大広間に集まっていた。夫に付き添って来た細君らしい女性の姿が三、四名見える。  幹事が立ち上がって音吐朗々と、 「軍神石井四郎中将閣下、並びに物故した関東軍満州第731部隊全将兵の御霊に対し奉り黙祷《もくとう》を捧げます。全員、黙祷!」と発声した。  広間に料理や酒を運び入れていたホテルの従業員がびっくりして顔を見合わせている。  黙祷の後、案内状通りの次第で総会が行なわれ、経過報告および、出席者の自己紹介と近況報告が為された。隊員同士初めて顔を合わせる者もいる。出席者は、元少年隊員が十名で最も多く、他が総務部、第三部(濾水器《ろすいき》研究)、資材部、教育部、診療部、第二部員などである。特設監獄(マルタを収容した七棟八棟)担当の特別班員(看守)および石井四郎の身寄りの者は一人も出席していなかった。また731の中核であった第一部の細菌研究班や第四部の細菌製造班のメンバーの姿もない。  後で聞いたことであるが、731には上層部による精魂会、少年隊員による房友会があるが、この両戦友会からこぼれ落ちた元部隊員の呼びかけによってこの第一回731戦友会が開かれたそうである。  総会が終り、親睦《しんぼく》会が始まろうとしていた。座はようやく打ち解け、会員の間に快い酔いが回りかけていた。  やおら出席者の一人が立ち上がった。 「我々はこれまで731の経歴をひたすら隠してきた。私の女房子供すら亭主と親父の経歴を最近まで知らなかった。しかるに此度の総会で731部隊の名前を堂々と標榜《ひようぼう》したのは、幹事としても相当勇気と決断を要したことだとおもう。幹事の英断を讃え、本会設営の労をねぎらいたい」  彼の言葉と共に、拍手と歓声が湧いた。つづいてまた一人が立った。 「我々は731隊員であった事実を隠す必要は少しもない。すべて国のためにやったことではないか」異議なし、同感! と喚声が湧いて、なにやら会社の株主総会めいた雰囲気になった。  またべつの男が立った。 「案内状にもあったように、我々は祖国日本のために青春を賭けた。絶忠に燃え、名実共に731部隊員として北満の曠野《こうや》に立って皇国の生命線を守った。私はいま中国関係の仕事をしているが、もし会員諸君に731の故郷、平房《ピンパオ》を訪れたいというご希望があれば、私が旅行の斡旋《あつせん》をしてもよい。ただし、731元部隊員であることは絶対に秘匿しなければならない」  出席者の間にアルコールが回り、メートルは上がる一方である。軍歌が飛び出し、会場の雰囲気は復古調が強くなった。  だが棟居が探している奥山の死因解明の手がかりになるような聞込みは得られない。棟居は神谷のかたわらに控えながら、自分一人が会場の空気から遊離しているのを感じないわけにはいかなかった。ここにはまぎれもなく三十余年前の軍国主義讃美がよみがえっていた。反戦や戦争の悲惨を訴える前に、戦いを生き残った者たちの懐旧の情が、苛烈《かれつ》な過去を美化していた。  アメリカ兵に放尿されながら父親を嬲《なぶ》り殺しにされた棟居(「人間の証明」中のエピソード)には、とてもついていけない。  一人の出席者が棟居の前に来た。六十を過ぎたとおもわれる老人で、酔眼|朦朧《もうろう》としている。 「どうもあんたにどこかで会ったような気がするんだがなあ」  老人は、酔眼を見開いて記憶を掘り起こそうとしているようである。棟居は一瞬ドキリとしたが、さりげなく、 「なにかのおまちがいでしょう。そこにもここにもある顔ですから」 「いやいやたしかに会っとるぞ。それもそれほど前のことではない」  老人はもどかしげに額を叩いた。そのとき中西が来合わせて、 「古館君の葬儀のときじゃありませんか。731の関係者がけっこう集まりましたから」  と助け船を出してくれた。 「そうか、そう言えばそんな気がする。古館も死んだが惜しい男を失ったもんじゃ。生きていれば731のために働いてくれたものを」  老人はぶつぶつつぶやきながら千鳥足で離れて行った。  一しきり軍歌が出た後、 「石井部隊長閣下のご遺徳を讃えるために、記念碑を新たに建立しようではないか」という提案が出されて、会場は一段と沸いた。  だがこのころになると座も乱れてきて、 「いまごろになって、なぜ部隊長の記念碑を建てる必要があるのだ。戦後三十六年していまだに日の丸と軍神じゃだれがついて行くもんかね。戦友会は、元隊員の親睦を図るのが本筋だよ」  とかげで不満を漏らす者や、 「あのとき、あんたに撲《なぐ》られたおかげで耳が遠くなったんだ、どうしてくれる」  と古い怨みを蒸《む》し返す者もいた。  幹事も頃合いよしと判断して、閉会前の最後の行事である記念撮影をすべく、写真屋を引き入れた。 「子供を産んだ女マルタがいたろう」 「そんな話を聞いたな」 「これはごく少数の者しか知らない話だがね、女マルタの前に、少年を誘拐して生きたまま解剖しちまったんだ」 「そんな噂《うわさ》もあったな」 「その少年というのが、女マルタの弟だったそうだ」 「本当か!」 「どこからか少年を騙《だま》して連れ込んだんだが、行方不明になった弟を探しに来た姉まで、弟を餌にして捕まえちゃったんだから、あくどいことをしたもんだよ」 「そうだ。そう言えば、少年隊の三沢がその解剖に立ち会ったと言っていたな」 「三沢は来ていないな」 「彼は一度も出席したことがないよ。あの解剖に立ち会ったのがよほどのショックだったらしく、あの夜内務班に帰って来たとき、実験用アルコールを使って密造した酒を飲んで泥酔していた。それからの彼は人が変ったように陰気になって、いつも自分の殻に閉じこもるようになったな」 「そんなことがあったのか。何年か前房友会を開いたとき、おれが幹事になってね、彼も誘ったんだ。そうしたら手紙がきてね、まったく出席する気はない。731には忌まわしい記憶があるばかりで、それをいまさら集まっておもいでを新たにしようとする人間の気が知れないと書いてきたよ。そりゃあ忌まわしい記憶かもしらんけど、我々だって好きでやったわけじゃない、お国のためにやったことだ。それに生死を共にした戦友が集まってなにが悪いんだとずいぶん白けたものだよ」  そんなひそひそ話が棟居の耳に届いた。それとなく声の方角をうかがうと、三名の五十三、四歳と見える男たちが、鼎《かなえ》になって話している。年の頃から少年隊員らしい。その中に四人組の一人である楢崎がいた。 「おい、きみたちも早く写真に入ってくれ」  幹事が三人に声をかけたのを潮時に彼らは立ち上がった。  全国大会は滞りなく終わり、翌朝、参会者は三々五々と去って行った。総勢五十六名の出席者の中、あるグループは、せっかくここまで来たのだからと、美ケ原へ足をのばした。またあるグループは別れ難く、松本で二次会を催した。時間の余裕のない者はそのままそれぞれの住所地へ帰って行った。  棟居は神谷に付き添って、松本から中央線の上り急行に乗った。熱海へ帰るには、いったん東京まで出るのがいちばん早いということである。中西と楢崎と帰りの列車が一緒になった。一緒になるように棟居が図ったのである。  昨日と打って変って、空はどんよりと曇っていた。北アルプスの方角は厚い雲に覆われ、安曇野《あずみの》にはガスが流れている。これではせっかく美ケ原に足をのばした人たちもなにも見えないだろう。  一行は言葉少なに、野面を流れる霧を見つめていた。霧のかなたに全国大会の余韻を追っているのである。三人の中の最年長である神谷は、特に感慨深そうであった。老齢と不自由な身体を押して出席した彼にとって、これが最後の全国大会となるかもしれない。それとて、棟居の介助がなければ来られなかった。  ガスが一瞬切れて、おもいがけない位置に高い山の影が覗いた。おもいおもいの感慨に耽《ふけ》っていた四人の目が期せずして同じ山影を追った。 「常念ですよ」神谷が昨日教えてくれた山の名を言った。山はたちまちガスに隠れたが、それがきっかけになって四人の間にポツリポツリと会話が生じた。 「いかがでしたか、731の全国大会のご感想は」  中西が問いかけてきた。 「びっくりしましたよ。戦後三十六年してもあれだけの人数が集まるのですからね。我々の同窓会でもああはいかない」  棟居は、軍隊に培われた連帯の強固さに本当に感嘆していた。 「あれで幹事の予測をかなり下回ったのですよ。連休のほうが大勢集まるとおもったのですが、かえって裏目に出たようです」 「あれで予測より少なかったのですか」 「今回から少年隊員だけでなく、731全隊員に広く呼びかけるようにしましたから」  古館の葬儀の帰途、初めて四人組に出会ったとき、その一人の鶴岡《つるおか》が「初めの趣旨から離れたものになってきている」と言っていた言葉とおもい合わされた。 「少年隊員の消息の知れている者たちが声をかけ合って発足した集まりでしたが、次第に脹《ふく》らんできましてね、顧問ばかり増え最近は会の運営は、お偉方の手に移ってしまいました。我々はもう受付ぐらいしかやらせてもらえませんよ」  中西は少し寂しげであった。これが四人組の竹林が言っていた「乗っ取られた」ということなのだろう。 「おれも今年で最後にするよ」  楢崎が言った。 「どうして?」  中西が目を向けた。 「石井部隊長の記念碑を建立する話が出るようでは、とてもついて行けない。いまさら軍神でもあるまい」 「話だけで実現はすまい」 「いやいやあの調子じゃ、本当に奉加帳が回ってくるぞ」  楢崎は索然とした表情をした。 「部外者として私が拝見したところ、石井中将を軍神として英雄視するグループと、反発しているグループとがあるようですね」  棟居が口をはさんだ。本命質問はまだ胸の中に含んでいる。 「石井部隊長は731の創設者として、隊員の中にいまでも象徴のように生きていることはたしかです。彼は軍人であると共に細菌学の第一人者であり、細菌戦の天才でした。その反面、非常に色好みの放蕩者《ほうとうもの》で、731に割り当てられた膨大な機密予算を流用して、昼は眠り、夜は酒色に耽っておりました。その自堕落な勤務ぶりに反感をもっていた幹部や隊員も少なくありませんでした。そんなところから評価が分れているのです」  神谷が言った。 「我々は部隊長《オヤジ》の遊蕩を、噂では聞いたことがありましたが、実態は知りませんでした。少年隊員にとっておやじは雲の上の人でしたからね。ただ、いまごろになって軍神扱いするのには抵抗を覚えるだけです」  楢崎が言葉を追加した。 「私も同感だよ。戦友会は互助と親睦が本義だ。減ることはあっても絶対に増えない会員が、たがいに助け合い親睦を深めるために寄り集まるのだ」 「その親睦すら拒否するお仲間もいるのですね」  棟居は、ようやく本命質問を発するきっかけをつかんだ。 「三沢君のことですか」  楢崎が、なぜ知っているのかと問うように棟居の方へ目を転じた。 「実は大会で、お仲間とお話ししておられたことが聞こえたのです。三沢さんという方の消息はおわかりですか」 「数年前に、私が所用で上京したとき国電の中で偶然出遇いましてね、そのときたがいの住所を教え合ったのです。房友会への出席勧誘を蹴《け》とばされてから、なんとなく気まずくなって、連絡を取っていません。いまでも同じ住所にいるかどうかわかりませんよ」 「その住所でけっこうですから教えていただけませんか」 「たしか千葉県の谷津《やつ》とかいう所に住んでいたはずです。詳しい住所は、家へ帰ってメモを見なければわかりません。三沢君がどうかしたのですか」 「女マルタの弟の生体解剖に立ち会ったそうですね」 「そのことが彼の性格を変えてしまったようです」 「是非三沢さんに会って、その様子を詳しく聞きたいのです」 「それが捜査に関わりがあるのですか」 「まだわかりませんが、関わっていくかもしれません」  731で出産した女マルタは一人しかいなかったことが、すでに藪下《やぶした》から確かめられている。すると生きたまま解剖されたという少年は、楊君里の弟ということになる。   少年の 内臓|跳《は》ねし 凍《い》てバケツ  改めて奥山の句がおもいだされた。奥山は三沢からその場面を聞いてその句を詠《よ》んだのであろうか。あるいは奥山自身が立ち会ったのか。生きながら解剖された楊君里の弟、その場面を句にした奥山謹二郎。これは無視できないつながりである。�新たな証人�はなにかを知っているかもしれない。その証言の中に奥山の死因を解く手がかりが潜んでいるかもしれない。楢崎は勝沼《かつぬま》で下車した。 [#改ページ]   怨嗟《えんさ》の蠕動《ぜんどう》      1  帰京後楢崎から聞き出した三沢の住所は、千葉県|習志野《ならしの》市にある。石井四郎が千葉県出身のせいか731元隊員は千葉県出身者が多い。もっとも三沢の現住所が出生地かどうか不明である。  棟居は翌日が日曜日であったので、午前中に出かけた。  総武線《そうぶせん》で船橋《ふなばし》まで行き、京成《けいせい》電鉄に乗り換え、谷津|遊園《ゆうえん》で下りる。跨線橋《こせんきよう》を渡り海側の出口へ下り立つと、正面にかなり大きな病院の建物があり、駅前は病院の前庭といった観がある。休日なので、谷津遊園を目ざして大勢の家族連れがいっしょに下りて来た。駅前はどこの郊外の駅でもおなじみの風景となった残置自転車の山である。これでも日曜なので、平日より数が少ないのであろう。  駅前商店街の入口にあった派出所に聞いて右手の道を進む。家族連れは左手の商店街を行く。その先に遊園地の入口があるのだろう。間もなく桁下高三・三メートルと書かれた低いガードを潜り、高速道路に沿った形で歩く。この地域は東京湾の埋立地と聞いてきたが、新設のマンションが目立つ。  三沢の家は、この地域では最も古い分譲住宅の中にある。数分後に外観は団地と同様の棟群が整然と立ち並んでいる分譲住宅の間に歩み入った。建物は古そうであるが、最近塗装を替えたばかりとみえて、外装は新しい。各棟にアルファベットの記号が書かれてある。三沢の居所はO棟の304号室となっていた。西面に競馬場、東側に谷津遊園の観覧車が望まれ、北面にスーパーストアを隔てて京葉高速道路が走っている。一棟に三つの階段があり、階段入口のメールボックスを覗いて回ると、中央階段のメールボックスに「三沢」の名前を見つけた。  三沢がどんな仕事をしているのかまったく不明であるが、日曜日の午前中ならば、在宅している率が高いだろうと見込んで来たのである。  三階の304号室のブザーを押すと、ドアが細目に開かれて、ひっつめ髪の顔色の悪い中年女がチェーンをかけたまま疑い深そうな目を覗かせた。棟居が名乗ってご主人に会いたいと告げると、女の表情が少し動いた。棟居は三沢がいることを悟った。 「あの主人が何か……?」  女の顔に不安が揺れた。 「ちょっと捜査の参考におうかがいしたいことがあるのです」棟居は女の不安をなだめるように言った。女はいったん棟居の名刺をもって家の奥へ行ったが、折返すようにして目つきの険しい五十前後の男と玄関へ戻って来た。彼が三沢だった。 「警察が何の用ですか」  棟居の名刺を指先で玩《もてあそ》びながら三沢の目が警戒していた。 「実は奥山謹二郎さんの件でおうかがいしたいことがございまして」 「奥山……」  三沢の目の色が記憶をまさぐっている。 「満州731部隊でご一緒だった奥山さんです」 「731だと! おれはなにも知らねえ。帰ってくれ」  三沢の顔色が変って、険悪な表情になった。だが目の奥に怯《おび》えが走っているのを棟居は見逃さなかった。 「私はまだなにも聞いておりませんよ。奥山さんが亡くなったことはご存知ですか」 「奥山さんが死んだ……」  拒否的だった三沢が、ふと注意をこちらに向けた気配があった。彼は奥山が死んだ事実を知らなかったようである。棟居は咄嗟《とつさ》にその気配につけこんだ。 「殺された疑いが濃厚です」 「殺された!」  三沢は軽いショックをうけた様子である。彼がショックから立ち直らないうちに楊君里と奥山とのこれまでの経緯を話した。 「それがおれに何の関係があるのかね。731のことはすべて忘れた。おもいだしたくもない。帰ってくれ」  三沢は束の間の驚きから醒《さ》めて、拒否の鎧《よろい》を固く身につけ直した。 「元隊員から聞きましたが、あなたは楊君里の弟の生体解剖に立ち会ったそうですね。そのときのお話をうかがいたいのです」 「帰れ! 帰ってくれ。おれはなんにも知らない」  三沢は、怯えたように、ただ帰れの一点張りである。 「少年の 内臓跳ねし 凍てバケツ——この句は奥山さんの選句です。奥山さんも少年の解剖に立ち会ったのか、それともだれかからその場面を聞いて句作したのか。女マルタだった少年の姉は、戦後三十六年して来日し、原因不明の死を遂げた。私はその死の真相を確かめたいのです。奥山さんの死と楊君里の死との間にはなにかの関連があるとおもうのです」 「おれには関係ないことだ。奥山さんが生きようと、女マルタが死のうと、おれとはいっさい関係ない。帰ってくれ」 「関係ないとは言えないとおもいますね」  棟居のやや強い声に、三沢は少したじろいだようである。 「あなたが731の隊員であった事実は、あなたがどんなに忘れようとされても消えることではありません。731が犯した所業は、当時の日本人だけでなく日本人すべての責任として受け止めるべきだとおもいます。この事件は731から発している疑いが濃厚です。元隊員としてどうかご協力いただきたい」 「日本人全部の責任だと?」  拒否で塗り固められていた三沢の態度が動揺した。 「そうです。戦争という狂気に日本人全体が取り憑《つ》かれて、集団発狂していたのです。同じ状況におかれれば、我々も同じことが、しかも何度でもできるのです。我々は731の所業を忘れてはならないとおもいます。731は日本人による加害の史実です。戦争体験と言えば被害の記録の多い中で、731のような加害の史実こそ、戦争体験の中核として記憶され語り継がれるべきであるとおもいます。そのことによって被害者に対する贖罪《しよくざい》と新たな戦争に対する抑止力となるのです」 「あんた、なかなか面白いことを言うなあ。しかし、女マルタは大勢いて、その楊なんとかいう中国人が、解剖された少年の姉かどうかわからんよ」  三沢の表情がだいぶ柔らかくなっている。731隊員の共通項は、国のために、国家の命令によって行なったことを、悪魔、外道呼ばわりされる怨みである。他の旧軍人がむしろ軍歴をひけらかし、軍人恩給をうけているのに対して、731隊員はひたすら経歴を隠し、妻や親子きょうだいにすら秘密を語らず、世を憚って生きている。  それを棟居は731は「日本人全体の責任だ」と言ってくれた。この一言で三沢の心証は大いに好転した様子である。 「出産した女マルタは一人だけと聞きました。731に送り込まれたとき少年の姉は妊娠していたそうです。すると楊君里だけが少年の姉になれます」  棟居は、すかさず楊の写真を三沢に見せた。 「私はその女マルタを一度しか見たことがありません。それに三十六年も前のことですから人相をよく憶《おぼ》えておりません」  三沢の言葉遣いが改まっていた。棟居は玄関口からようやく中へ招じ入れられた。ベランダに面した居間で改めて向かい合うと、棟居は、「どうして彼女が少年の姉だとわかったのですか」と質《たず》ねた。 「女マルタが少年のことを看守や研究員たちに聞いていたのです。弟がここに来ていると聞いた。弟は日本軍に対してなにも悪いことはしていない。なにかの誤解で捕まったのだとおもう。すぐ釈放してもらいたい。そんなことをたどたどしい日本語で訴えていたそうです。私は病理研究班の実習勤務に就いていましたが、班員たちの噂話から、その弟というのが、一か月ほど前に生きたまま解剖された少年であると知りました。班員の話によると少年は731の研究用に、関東軍ハルピン特務機関が誘拐して、731に売りつけたということでした。売りつけたというのは、当時731の病理研究班で二日で二、三体、多い日で八体から十五体の病理解剖を行なっていたので、大量のマルタを�消費�していたからです。その需要に応えるために関東軍ハルピン憲兵隊や特務機関が敵の捕虜や抗日分子を送り込んだのですが、それだけでは足りず、一般中国市民を騙《だま》したり誘拐したりして、731に連れ込み、一体毎にかなりの手数料を取っていたのです。憲兵隊にとってマルタは絶好の金蔓《かねづる》となり、せっせと人間狩りに精を出したのです」  731の悪業は、それ自体に留まることなく、その周縁までも関連|腐蝕《ふしよく》させていたのである。いったん解《ほぐ》れると、三沢の口は滑らかであった。 「当時のハルピンには市街の四分の一を占める傅家甸《フウジヤーデン》という地区がありました。当時の満州最大の暗黒街で、あらゆる人種、ヤクザ者、犯罪者、流れ者、失業者、売春婦、麻薬中毒患者の巣となっており、内部は蟻の巣のように迷路が輻輳《ふくそう》していました。外部の者が誤って踏み込もうものなら、身ぐるみ剥《は》がれるか、生きては出て来られないと恐れられていた地域です。阿片の闇市《やみいち》が毎日立ち、殺人窃盗などは日常の大魔窟《だいまくつ》と言われていました。しかし当時の関東軍にその気があれば、簡単に一掃できたのです。それをしなかったのは、フウジャーデンの魔窟性を実態以上に誇張して宣伝し、彼らの金蔓のマルタの調達源としていたからなのです。また軍にとって都合の悪い人物を殺して、死体をフウジャーデンに転がしておくのです。言わば、フウジャーデンは、関東軍と731のトンネル機関のような役目をつとめていたのです。その少年も、どうやらフウジャーデンから攫《さら》って来たようでした」 「すると、その姉もフウジャーデンの住人だったのですか」 「フウジャーデンは、スラムではありませんでした。�富者店�とも書き、ここには北満の経済を支配する経済力をもった大ボスもいれば、その日の暮らしにすらこと欠く、乞食同然の貧民もいました。冬になると、阿片に酔ったまま路傍に眠り込んで凍死した死体がごろごろ転がっていたそうです。憲兵はまず少年を誘拐した後、姉に少年の行方を知っているからそこへ連れて行ってやると欺いて、彼女までも731に連れ込んでしまったのです。さすがの班員たちも憲兵のやることはあくどいと呆《あき》れていました」 「少年の解剖にあなたは立ち会われたのですね」 「あのときの情景はいまおもいだしても、肌が粟立《あわだ》ちます」  よほど恐しい記憶なのであろう。三沢の面はすでに血の気が退いていた。 「奥山さんはその場にいましたか」 「いませんでした」 「あなたはその場面を奥山さんに話しましたか」 「いいえ、我々少年隊員は、実習勤務先で見聞きしたことをいっさい口外してはならないと厳重に言い渡されておりました。奥山さんは教官でしたから、そんなことは話しません。でも生体解剖の実景は、自分一人の胸に閉じこめておくには重すぎました。少年隊の内務班の仲間にだけこっそり話しました。夜の少年隊舎は、少年隊員が実習勤務先で見たことの情報交換の場となったのです」 「すると奥山さんはだれから聞いて句作をしたのでしょうね」 「おそらく解剖に立ち会っただれかから聞いたのでしょう」 「その解剖に野口班の藪下技手はいましたか」 「野口班はリケッチヤ担当ですから、解剖はしません」 「どうしてなんの罪もない少年を生きたまま解剖してしまったのですか」 「生《い》きのいい標本が欲しかったからです」 「差し支えがなかったらその解剖についてお話しいただけませんか」 「おもいだすのもおぞましい記憶ですが」  忘却のカサブタの下に埋め込もうとした恐しい記憶を意志の力を奮って掘り起こしながら、三沢が再現した生体解剖のシーンは、まさに戦慄的《せんりつてき》であった。  ——昭和十九年四月初旬、その少年は解剖室の片隅にじっとうずくまっていた。三沢よりずっと年下の十二、三歳と見えた。十数人の白衣の石川班員、黯《くろ》ずんだ鉄製の手術台、その上に吊り下げられた室内を隈《くま》なく照らす集合灯、ホルマリン液を入れた標本用ガラス容器、凶器のように光る手術用器材、——事実、メス、切断刀、切開器、鋸《のこぎり》などは、少年の体を切り刻む凶器であった。——手術室に染み込んだホルマリンのにおい。それらの総合が緊迫した雰囲気となって、少年を怯えさせていた。  当時中国の一般市民のほとんどがそうであったように、少年は痩せて顔色が悪かった。少年は動物的な本能でこれから自分の身上に起こることを予感していたらしく、身体をできるだけ縮めて、恐怖に耐えようとしていた。時折、救いを求めるように目を上げたが、周囲のどこを探しても、少年の味方はいなかった。少年を庇護《ひご》すべき肉親から遠く隔てられ、もはや泣いても喚いても、肉親の耳に届かないことを悟った少年は、重い絶望にふたがれ、せめてできるだけ身体を縮めて自分の中に閉じこもろうとしているかのようであった。  少年の解剖に携わる班員の役割は定まっていた。執刀に当たるのは、石川班の助手格の技手、剖検記録を口述するのが班長クラスの技師(医師)、それを筆記するのが新米の技手、手術介助をする技手、見学する実習勤務の少年隊員など十数名である。各班長はいずれも名だたる医学者であり、よほど興味を惹《ひ》かれたマルタ以外は、自らの手を汚すことはなかった。  準備が整い、手術の介助者が少年に服を脱ぐように命じた。少年は怯えてますます身を縮めた。 「べつに痛いことはなにもしないから服を脱ぎなさい」  介助者が重ねて促したので、少年は観念したようにのろのろと服を脱ぎ始めた。下穿《したば》きも除《と》り全裸になった少年の小指のような性器に、まだ陰毛は生えていなかった。 「ベッドに上がれ」  本能的に危険を悟ったらしく後ずさりをした少年を、数名の技手が手取り足取りして無理に手術台の上に押し上げた。台に乗せられた少年は側臥位《そくがい》にさせられ、背骨を曲げさせられて腰椎腔《ようついこう》に麻酔が射たれた。腰椎麻酔が回ったころ、クロロホルムを浸み込ませたガーゼで鼻孔を覆う。少年はかすかにもがいたが、間もなく完全に眠りに落ちた。少年の上半身がアルコールで清拭された。  執刀の技手が手にメスを握って少年に近づいた。介助者が手術開始時間を告げる。少年の首の下にメスが入り下腹部にかけて一気に正中切開された。正中線の両側からプツプツと血が噴き上がる。開くそばから介助者がコッヘル鉗子《かんし》で止血しつつ、腹膜鉗子で切開部をぐいと押し広げる。止血をしていても、勢いよく血が飛び散り、執刀者や介助者の白衣を点々と染める。黄色い脂肪層の下からうす桃色のぬめりを帯びた臓器が現われた。大腸、小腸、十二指腸、胃、膵臓《すいぞう》、肝臓、腎臓《じんぞう》、脾臓《ひぞう》などが次々に取り出され、一つずつ検査、計量されてはバケツの中にどさりどさりと放り込まれていく。  肝臓 九八八グラム  腎臓 左七二グラム 右六九グラム  脾臓 七六グラム  助手の一人が事務的に秤《はかり》の目盛を読み上げる。取りたての臓器が秤の上で動くために針が揺れてなかなか目盛を読み取れない。腹腔がみるみる空になると、胸部に取りかかる。執刀者はメスから切断刀に持ちかえて肋骨を下から上へザクザクと切断していった。肋骨が全部切断されて胸骨と鎖骨が切り離されると、胸腔内の心臓と肺臓が現われた。腹腔部はすでに空洞になっているのに、心臓と肺はまだ盛んに動いている。その動いているままを情容赦なくつかみ出して、検査計量後バケツの中に放り込んでいく。  技師が事務的に剖検記録を口述する。  腹腔概観   胃下縁ノ高サ正中線上剣状突起底下一六|糎《センチ》左乳腺上季肋縁ニ一致、肝下縁ノ高サ正中線上剣状突起底下一六糎、右乳腺上○○○(意味とり損う)下四糎、横隔膜ノ高サ第五肋骨上縁、右ハ第四肋間ノ高   腹壁腹膜ハ細血管充盈、淋巴腺《りんぱせん》ノ腫張ヲ生ジ上行結腸ト限局性○○(意味とり損う)ヲ営ム脂肪織竝筋肉ノ発育良好、漿膜面滑沢   諸腸。腸管ノ含気量尋常ニシテ蹄係間ニ癒着ナク細血管充盈ス一部出血認   腸間膜。脂肪織ノ発育良、漿膜面滑沢、細血管充盈、鮮紅色ヲ呈ス  バケツの中に放り込まれた臓器は、直ちに、用意されていたホルマリン液入りのガラス容器に一物ずつ移され蓋《ふた》をされた。  手際よい執刀者のメスによって少年の上半身はたちまち空洞になった。頭部と手足のみ残してがらんどうの胴体を開かれた少年を見た三沢は、ふと魚の「開き」を連想した。三沢の眼前のホルマリン容器の中で取り出されたばかりの少年の臓器がピクピク動いていた。 「おい、まだ生きてるぞ」 「人間の活《い》きづくりだな」  見学を許された新米技手がささやき交した。胃袋を取られ肺を切除されると、腹腔に加えて胸郭《きようかく》が完全に空洞になった、がらんどうの上半身の上に眠っている少年のいが栗頭はさらに小さく見えた。  メスは、休む間なく胸郭からそのいが栗頭に移った。手術台に固定された頭部の頭頂から耳と鼻にかけて直角にメスが入れられた。  切り口に指先をかけ頭皮を力いっぱい引っ張ると、果物の皮のようにくるりと剥《む》かれる。露出した頭蓋骨《ずがいこつ》を鋸で挽《ひ》く。頭蓋骨が切断され、脳が突出した。技手の一人が手を突っ込み、豆腐でも取り出すように脳を掬《すく》い出した。  台の上には、麻酔で眠らされている間に、脳と内臓のすべてを取り出されてしまった少年の手足と空洞になった身体の形骸《けいがい》だけが残っていた。手術開始後五十五分であった。 「よし、もって行け」  班長が三沢他数名の実習者に命じた。容器に採集された標本を、陳列室および各班に運んで行くのである。マルタの生体解剖と実験の権利は、マルタの所有班にあったが、解剖と実験後の臓器は、各班のリクエストに応じて分配された。その中で最も人気が高かったのは、脳であった。当時脳外科の研究は緒についたばかりで不明の点が多かったのである。  三沢は脳を入れた容器をもたされた。三沢の危なっかしい手つきに不安を覚えたのか、班長は命じた後、三沢に向かって、 「大切な標本だ。落とすなよ。落としたらおまえの脳をもらうぞ」と言った。  三沢のかかえた容器の中で切り取られたばかりの少年の脳がまだ生きているかのようにタブタブと音をたてて揺れた。三沢はそれが自分の切除された脳のような気がした。—— 「少年は、眠っている間に全身を空洞にされてしまったのです。だれ一人として少年に同情を寄せた者はありませんでした。少年は人間ではなく、飛び切り生きのいい標本を提供する実験材料にすぎなかったのです。私自身も少年を哀れとおもったわけではなく、ただ恐しかったのです。班長がおまえの脳をもらうぞと言った言葉が耳にこびりついて、自分が寝ている間に解剖されてしまうような悪夢に魘《うな》され、夜が恐くなりました。いまでもまだあの夢を見ることがあります」  酸鼻な記憶を掘り起こした三沢の表情から完全に血の気が失せていた。聞いているだけで身の毛がよだつ話であったが、それを実体験として心身に刻みつけられた三沢は、終生悪夢に魘されるのであろう。長い間自分一人の中に封じこめておいた記憶を話したので、はずみがついたのか、三沢は自虐的に語りつづけた。それは一人で背負っているには重すぎる記憶であり、だれかに話して、その負担を分けたいという潜在願望があったのであろう。解剖台手と足のみが 残り凍て——奥山の遺句の一つの由来がこれでわかった。 「全身麻酔を施された少年は、眠っている間にバラバラにされてしまいましたが、中には局所麻酔で解剖することもありました。局所麻酔では、マルタの意識は明瞭《めいりよう》です。下半身に強い麻酔を施されてなんの痛みもないまま、身体を切開され、臓器を取り出されるのをマルタは自分の目で見、脳で認識しているのです。この場合麻酔そのものが実験になっています。マルタの意識を生かしておいて、その身体を切り刻みながら、マルタの反応を見るのです。動脈や神経を切断したり、またつないだり、内臓を一つずつ切り離したり、小腸と食道を直接つないだり、脳を開いてあちこち突っついては、身体各部位の反応を見たり、女マルタに対しては生殖機能を中心に微細な解剖を行ないます。膣《ちつ》、子宮、輸卵管、子宮頸管、卵巣、それぞれの部位にさまざまな測定器具をあてがい、じっくりと調べる。女マルタの場合は時間がかかりすぎるので、事前に実験計画を立てて、実験が偏らないようにしました。生体解剖と実験は、平時ではとうていできない、医学者にとって夢の実験でした。それが731では無尽蔵の生体に恵まれて、いくらでも考えつくかぎりしたい放題のことができました。  生体解剖には二つの大きな目的がありました。一つは標本の採集です。病気と人体の関係、例えば伝染病に罹《かか》った人間の心臓はどのように肥大するのか、あるいはしないのか、肝臓の変色はどうか、感染各時期の変移状況と各パーツの変化を生きながらにして捉《とら》えるには生体解剖に勝る方法はありません。またさまざまな薬物や異物を人体が取り入れた場合の反応や身体諸器官の時間経過に従っての変化との関連を確かめるのも生体解剖が理想的です。そのためにマルタには人間の考えつくかぎりのありとあらゆる物質が注入されました。血管に空気を注射すると死に到《いた》ると言われていてもそれを確かめた者はいない。この際とばかりにマルタの静脈に空気を注射し、その量と身体諸器官の反応をみたり、尿や馬の血液を腎臓に注入したり、血液を徐々に抜いたり、肺に煙を大量に送り込んだり、煙の代りに毒ガスを吹き込んだり、とにかくしたい放題のことをしました。  石井部隊長は、生体解剖を勧誘材料として全国の優秀な医学者を集め、そして731で腕を磨いて戦後の学界で名声を博した者も少なくありません。とにかく日本内地では絶対にできないような実験を、飽きるほどできるのですから、医学者たちにとって731は魅力ある練習舞台でした」 「少年の姉、楊君里は、弟を見舞った残酷な運命を知っていたのでしょうか」 「多分知らなかったとおもいます。弟に会わせてやろうとか、弟の命を助けてやるとか甘言を用いて姉を連れて来たのですから、彼女に本当のことを打ち明けるはずがないとおもいます」 「あなたは終戦時、少年の姉一人だけがみな殺しにされたマルタの中で救われたということをご存知でしたか」 「女マルタが一人生き残ったという噂は聞きましたが、少年の姉だとは知りませんでした」 「奥山さんが亡くなった原因に、その少年の死がからんでいるようなのですが、なにかお心当たりはありませんか」  三沢の話は衝撃的であったが、いまのところ、奥山の死因につながっていかない。 「心当たりと言っても、特にありませんね」 「少年の解剖に携わった人たちの中で、奥山さんと親しかった人はいますか」 「いたかもしれませんが、私は知りません」 「解剖のとき何人ぐらいが立ち会っておりましたか」 「十五、六人だったとおもいます」 「全員が病理研究班のメンバーでしたか」 「解剖の執刀は主として病理研究の岡本、石井両班の技手が行ないました。因《ちな》みに731の階級は佐官級に相当する高等官という高級軍属、尉官級中級軍属の判任官、下級軍属の雇員《こいん》と傭人《ようにん》に分れていました。技師は高等官であり、技手はおおむね判任官クラスでした。技師は班長他二、三名、技手が四、五名、他雇員が十名くらいでした。技手一人が一日三体解剖するのが精一杯でした。731には細菌製造班の他に、病理、薬理、ペスト、コレラ、ヴィールス、リケッチヤ、凍傷、植物、昆虫などの各専門研究班がおかれていましたが、珍しい解剖が行なわれるときは、各班から技師や技手が見学に来ます」 「研究班以外から、例えば教育部とか総務部などから見学に来ませんでしたか」 「来ませんでした」 「すると奥山さんは立ち会った人のだれかから解剖の模様を聞いたのでしょうか」 「多分そうだとおもいます。私は俳句をやりませんが、五七五の語句に伝聞で解剖シーンを句作するのは、それほど難しいことではないとおもいます」  その難易のほどは棟居にはなんとも言えないが、奥山の遺句は平明でよく意味がわかる。  奥山の遺句が伝聞による間接体験を詠《よ》んだ�想像句�であれば、少年と奥山の死因との間にはなんのつながりもないかもしれない。  棟居の面を塗った徒労の色に、三沢は、ふとおもいだしたように、 「ちょっと待ってくださいよ。解剖に各研究班員以外の人間で立ち会っていた者がおりました」 「だれですか、その人は」 「画家ですよ」 「画家!」  棟居の心象になにかが走ったように感じた。 「画家と言いましても、加賀友禅《かがゆうぜん》の図案下絵画家でした」 「友禅染めの画家がなぜ解剖に立ち会っていたのですか」 「生体から採取したばかりの標本を写生するためです。当時はまだカラーフィルムが開発されておらず、貴重な検体の色を正確に記録にしておくことができませんでした。そこで彼の技術が求められ、珍しい検体や標本採集の都度駆り出されたのです。その画工と奥山さんは親しかったようです」  棟居の心象に走り抜けたものが、はっきりと輪郭を画き出した。高村智恵子には美術的才能があり、日本女子大を卒業後、明治美術会の松井昇の助手をつとめ、母校の西洋画教室で後輩の指導にあたった。また谷中《やなか》の太平洋絵画研究所に通い、油絵の勉強をつづけた。  その智恵子と親しく交際していた奥山は当然、絵心があったであろう。奥山と友禅染めの画工が絵を通して親しくなったとしても、不思議はない。凍傷試 描く画家の手 おののける——奥山の遺句の一つはその画工を詠《よ》んだのにちがいない。 「画工の氏名と住所はわかりますか」  一つの手がかりがまた新たな手がかりにつながる気配があった。 「——橋爪《はしづめ》という人です。富山県の八尾《やつお》町の人ですが、戦後は画工を止めて郷里へ帰ったというような噂を風の便りに聞きましたが……」  富山県の八尾町ならば黒人青年刺殺事件の際、�犯人の郷里�として捜査に行ったことがある。 「風の便りとおっしゃいますが、あなたは、帰国後731元隊員との交際をいっさい断《た》っておられるのでしょう。それなのに橋爪氏の消息がどうして届いたのですか」 「そうだ、数年前国電の中で少年隊員の仲間に会ってそんな話を聞いたのです」 「少年隊員というと楢崎さんではありませんか」 「そうです。楢崎でした。そのとき彼から少年隊員が集まって房友とかいう会を結成したので参加するように勧められましたが、いまさらそんな集まりに加わるのは無意味だとおもったので断わりました」  結局、元の所へ戻って来てしまった。      2  楊君里の弟の生体解剖に立ち会ったという元友禅染めの下絵画工橋爪は、奥山謹二郎と親しかった状況がある。奥山は解剖の場面に立ち会っていないにもかかわらず、あたかも臨場していたかのような生ま生ましい句を作った。  731元隊員を探して経巡《へめぐ》るほどに、目を背けるような所業が浮かび上がってくるばかりで、楊君里や奥山の死因にはいっこうに近づかない焦《い》らだたしさを覚えていた。だが元隊員をつなぐ連鎖が延びていくほどに731の実体が明るみに晒《さら》されてくる。そして同部隊の暗黒面の中に必ずや楊君里や奥山につながっていく秘密があるにちがいない。  棟居は焦燥の中に確実に盛り上がってくる胎動のようなものを感じていた。それは連鎖の先になにかが潜んでいる予感でもある。  帰京して改めて楢崎に連絡を取り、橋爪の消息を聞いた。  楢崎は、山梨県勝沼町で果樹園を経営している。棟居から問い合わせをうけた楢崎は、 「もう五、六年前の消息ですがね、房友会の会合でだれかがしゃべっていたのを小耳にはさんだのです。いまでも同じ所にいるかどうかわかりませんよ」 「それでけっこうです」  古い住所地がわかれば、そこから手繰ることができる。楢崎から聞き出した橋爪の住所は「富山県|婦負《ねい》郡八尾町西町」であった。  棟居にとっては再度の八尾行であった。前回は横渡が同行したが、今回は一人である。あれからすでに四年の歳月が経過している。前回訪れたとき横渡が、 「こんな事件《こと》でもなければおそらく一生来なかった所だろう」と呟《つぶや》いていたが、その地に再度訪れることになった棟居は感慨無量であった。  前回よりやや季節が早く、十月末であった。八尾の町には秋色が濃厚であった。町の至る所に秋の匂いがたちこめている。橋爪の家は井田川《いだがわ》を渡り、町の山手にあった。この町は起伏の多い段丘の上に発達し、井田川を挟んで、山手にあたる�上手�と、駅から発達した�下手�に分れている。�上手�は東西に平行して走る東町と西町に分れ、緩やかな傾斜をもって山の方に続いている。瓦葺《かわらぶき》の低い家並のつづく、山峡の町であった。  古い消息だけを頼りに尋ね尋ねしてようやく橋爪の家を探し当てたものの家人に用件を伝えて、刺を通じると、冷たく門前払いを食わされた。だが橋爪が在宅することを悟った棟居は粘った。  棟居の声は、さして広くもない家の奥にいた橋爪の耳に達したらしく、本人が奥から姿を現わした。六十前後の一徹そうな老人である。白い眉毛《まゆげ》が長くのびて、細く小さな目がその下に隠れそうであるが、眼光は鋭い。頬骨《ほおぼね》が尖《とが》り、そこだけが赤黒く日に焼けたようになっている。右手に怪我でもしたのか、白い手袋をはめているのが奇異な感じであった。 「せっかく東京から来られたそうだが、わしゃあなあも知らんがです。戦地のことはなもかも忘れしもて。どうぞ帰ってくだはれ」  言葉遣いは丁寧であったが、妥協の余地がなかった。  棟居は、なおも言葉を尽くして協力を求めたが、橋爪の態度は変らない。 「お爺《じい》ちゃん、とにかく中へ入ってもらったら」  玄関口で押問答をしている二人を見かねて、家人が口を添えてくれたが、橋爪は、 「中で話し合うことはなあもない」  と頑《かたくな》な態度を崩さなかった。  とりつくしまもない橋爪に棟居は、最後の望みを託して、 「橋爪さん、この句を記憶しておられますか」  と言いつつ、手帳に書き写してきた奥山の遺句を示した。橋爪の視線が手帖に向けられた。 「凍傷試 描く画家の手 おののける——この句に詠《よ》まれている画家とはあなたのことではありませんか」 「な、なんだしてこの句を!?」  拒絶一方であった橋爪の表情が動揺している。 「やっぱりあなただったのですね。まだあります。——少年の 内臓跳ねし 凍てバケツ——解剖台 手と足のみが 残り凍て」 「止めてくだはれ!」  橋爪は耳を塞《ふさ》ぐようなジェスチャーをした。 「奥山さんは、少年の解剖に立ち会っていなかった。にもかかわらずこれらの生ま生ましい句を詠んだのは、あなたが話したからでしょう。奥山さんの死因には、生体解剖された少年がどこかでつながっているようにおもえます。我々は奥山さんや少年の姉の楊君里の不可解な死因を突き止めたいだけです。ご協力いただけませんか」  奥山の遺句を見てから橋爪の態度が動揺しかけていた。棟居はここぞとばかりに説得につとめた。 「あなたが731の記憶を封じこめたいお気持はわかります。しかし、もし奥山さんや楊君里の死が731から発しているとすれば、戦友としてその死因を明らかにしてやりたいとはおもいませんか。彼らは731のために死んだのかもしれないのですよ」 「わしゃあもう731とはなんの関係もない」  と反駁《はんばく》したものの、口調はだいぶ弱々しくなっていた。 「そうは言えないとおもいますよ。あなたが好むと好まざるとにかかわらず、731はあなたが背負わされた十字架です。一生その十字架を下すことはできないのです。十字架に 感染の蚤《のみ》 襲いせむ——と奥山さんも句作しております。この十字架は731隊員の共通のものです、あなたと奥山さんや、他の元隊員たちが重さを分け合わなければならない十字架です」 「わかったちゃ。そっで、なにを聞きたいと言われんがけ」  橋爪は遂に折れた。ようやく家の中に招じ入れられた。棟居はこれまでの捜査の経緯を話してから、 「あなたは、たしかに少年の生体解剖に立ち会われたのですね」  と確認した。 「立ち会いました。標本が新鮮なうちにその写生をするのが私にあたえられた役目やったがでね」 「その場面を後に奥山さんに話しましたね」 「話しました。奥山さんは画の趣味があり、わしが時々お宅へ出かけて行っては、手ほどきをしとったんで、少年の解剖に立ち会ったことを話しました。解剖室で見聞きしたことは絶対に口外せんように厳しく言い渡されとったんですが、だれかに話さんことにゃやりきれんかったがです」 「あなたは少年がどこから連れて来られたか、また少年の身許についてなにか知っていましたか」 「マルタの身許いわれても我々はぜんぜん知らされとらんがです。だれど、少年がハルピン特務機関によって密《ひそ》かに誘拐されてきたがだちゅう噂は流れとりました。だいたい十二、三歳の少年が、敵の兵士やパルチザンであるはずがないがです」 「少年が解剖された後、その姉が送り込まれて来たということですが、あなたはその女マルタ楊君里と少年の関係を知っていましたか」 「そんな噂が流れとったですちゃ」 「どこから、そんな噂が流れたのですか」 「どっだけ箝口令《かんこうれい》を布いたって、人の口に戸は立てられません。特に各研究班には好奇心旺盛な少年隊員が実習に配属されとったですから、彼らの口を経てたちまち広まってしまうがです」 「あなたは少年の解剖の場面を奥山さん以外の人に話しましたか」 「奥山さんだけです」 「少年の姉には接触しましたか」 「しとらんかったです。しかし、少年が生体解剖されたという噂は隊内一部に流れとったですよ」 「すると、奥山さんがあなたから生体解剖の場面を聞いて句に詠《よ》んだことは、少年との特別な関係があったということになりませんね」  井崎夫婦と楊君里との嬰児すり替えはその後に発生した事件である。これは井崎夫妻、藪下技手、楊君里、野口少佐の間における謀議であって、奥山はこの計画においては部外者であった。 「奥山さんは一度気になることを漏らしとったことがありました」  橋爪がポツリと言った。 「気になることとは、どんなことですか」 「少年の姉、——楊君里という名前だったですね、彼女が送られて来たとき、奥山さんは、彼女の胎児の父親を知っとるようなことを言うとったがです」 「胎児の父親をしっていた!? 本当ですか」  棟居は身を乗り出した。奥山がそんなことを事前に知っていたとすれば、彼と楊君里の間に特別な人間関係が存在したことになる。 「胎児の父親は日本人だと言うたがです」 「日本人!」 「奥山さんは名前を明らかにせんかったでしたが、少年と姉は、その日本人と一緒に口を封じられたのだと言うてから、彼は慌てて、いまぼくが言ったことは忘れてくれと言うたがです。こんなことをぼくがしゃべったとわかればぼくだけではなく、きみにも災厄が降りかかると怯えたように言うとりました。少年と、楊君里には、普通のマルタとはちがうべつの事情があったらしいがです」  いま初めて聞く驚くべき情報であった。棟居は、いかに同情したとは言え、マルタを救ったことに違和感を覚えていた。マルタが一人でも生き残れば、731の悪業が明るみに晒《さら》されてしまう。それは彼らの安全を脅かすものである。  楊君里はマルタではなかったのだ。べつの理由でマルタにまぎれ込ませて�処刑�しようと図ったのである。そしてそのことを井崎夫婦も藪下清秀も知っていたにちがいない。「日本人の妻」だからこそ、彼らも命懸けで救ったのだ。おそらく楊君里の夫の日本人は、当時の日本にとって好ましくない人間だったのであろう。  そういう人間は、危険な最前線に押し出すのが、軍部の手であったが、�家族�まで731のマルタに紛れ込ませて処刑しようとしたのは、尋常ではない。  あるいは楊君里が中国側のスパイで、その日本人が彼女に取り込まれたという可能性も考えられるが、楊より先に弟の少年が送り込まれて来たのはなぜか。 「楊君里の子供の父親についてなにかお心当たりはありませんか」 「ないがです」  橋爪の表情は嘘《うそ》を吐いていなかった。橋爪はそれ以上のことは知らなかった。だが楊君里の子供の父親についての新たな示唆は、事件にべつの局面を開くような予感がした。棟居は礼を述べ辞去しようとして、ふと、 「ただいまも画をお描きになっておられますか」  と質ねた。橋爪は寂しげに笑うと、右手の白い手袋をはずして、 「この手じゃ絵筆は握れませんわいね」と手を棟居の前にかざしてみせた。その手には人さし指から小指までが欠けていた。第二関節の上あたりから刃物で切り落としたように指の軸に対して水平にすっぱりと失われていた。 「その手は、どうなさったのですか」  棟居が愕然《がくぜん》として問うと、 「自分で斬り落としたがです。こうすればマルタを写生せんでもええですからね」  それを聞いたとき、棟居は橋爪の背負った十字架の重みを実感したのである。 「な、なにもそこまでなさらなくとも」  棟居は言葉が滞った。 「こうする以外に逃れようがなかったがです。指があるかぎりわしゃあ悪魔の写生をつづけんならんかったですでね。それがどんなもんだったか、経験したもんでなけりゃ、到底わかってもらえんでしょう。わしゃあ自分の画描きとしての技術を呪《のろ》ったもんです」  棟居にはもはや言うべき言葉がなかった。女性の肌を艶《つや》やかに装う友禅の、目も彩《あや》な絵模様を描く腕を買われて、悪魔の彩色を施さなければならなかった画工の精一杯の抵抗が、自らの指を切り落とすことによって果たされたのである。彼にとって、多色な友禅染めは、マルタの血によって彩られたように見えたにちがいない。  橋爪が語った写生は、まさに地獄の絵柄であり、悪魔の彩色であった。  彼が主として行なったスケッチは「凍傷」であった。凍傷専門の吉村班は、マルタの治療よりも凍傷になった(させた)マルタの細胞が壊死《えし》状態に至るまでの全経過を記録することを研究の主眼にしていた。  極寒の最中《さなか》、冷水に浸したマルタの手足を外気に晒させる。マルタの皮膚は初め白く貧血し、血管の不全麻痺により鬱血《うつけつ》して蒼紅色《そうこうしよく》から青藍色となる。皮膚は腫張して痒《かゆ》くなる。これが第一度で、さらに進むと水疱が生じ、破れて爛《ただ》れてくる。これが二度で、寒冷がさらに作用しつづけると、糜爛《びらん》面がどす黒くなって組織が壊死する。これが三度の完全凍傷であり、血行は止まり、神経は完全に麻痺してしまう。  吉村班では、マルタが完全凍傷になったかどうか見分けるために、手足を角材で撲《なぐ》った。痛みを訴える間は、まだ十分なる凍傷に至っていないというわけである。  マルタの四肢が壊死したのを見届けてから屋内に戻して�治療�に取りかかる。治すためではなく実験のための治療であるから、湯の温度をさまざまに変えて手足を浸させ、その変化を見る。完全凍傷の手足をいきなり熱い湯に浸すとその部分の肉が豆腐のようにボロリと崩れ落ち、白い骨が露出することもある。このようなマルタの四肢は切断する以外に生命を助ける方法はない。  橋爪が描かされたのは、まさにこのように壊死し、変形したマルタであった。両手の指関節から腐り落ちた指、踵《かかと》から先を失った足、アザラシのように短くなった四肢、白骨が剥き出しになった足首から股、寒冷作用が全身に及んで遂に死に至った凍死体、橋爪は娘たちを飾る艶麗な友禅模様を描くべき画筆で、おぞましい画を次々に描いていった。  彼の画帖を見た上官は「うまいものだ」と讃《ほ》めてくれた。 「わしゃあ画才というもんが、戦争にも役立つことを初めて知りました。自分の才能と技術が、美を創り出し、人々を幸福に豊かにすることに役立つと信じとったわしにとって、それが禍々《まがまが》しくおぞましい実験記録にも用いられると知ってえらいショックでした。もうはや自分には娘たちの晴着を彩る資格はない。自分の絵筆は汚れてしもた。そんな腕ならないほうがええと理由づけたのは、後のことで、そのときは、マルタを描くことに耐えられんようになってしもたがです」  橋爪は自嘲的《じちようてき》に言うと、指のない手にまた手袋をはめた。 「野口班の井崎良忠技師、藪下清秀技手をご存知ではありませんか」  棟居は事務的に質問をつづけた。事務的にならなければやりきれなかった。 「井崎技師は知らんかったですが、藪下さんは、わしが指を切り落としたときに診療所に居合わせて手当してくれた人です。藪下さんがどこにおられるか知っとられんがですけ。731関係であの人だけには会いたいとおもとるがですが」 「それはなぜですか」 「あの人だけはわしが指を切り落とした理由をわかってくれたようながです。早まったことをした。もう少し辛抱すれば、この指が本来の役に立つときがきっとくるのにと自分のことのように嘆いてくだはれました」 「戦後ご郷里にお帰りになられたのは、なにか理由があるのですか」 「指を切り落としたんで、友禅とは縁のない土地に住みたいとおもたがです。この地に生家がありましたんで、引揚げ後しばらく厄介になっとる間に根を下してしもたがです」  棟居は藪下の住所を教えて、橋爪の許を辞した。 [#改ページ]   完成せざる時効      1 「そうですか、そこまでお調べですか。私としてはできれば伏せておきたかったのですが、止むを得ませんね」  再び訪れて来た棟居を迎えて、藪下はあきらめたような口調になって、 「731部隊の存在そのものが日本陸軍の暗黒部分でしたが、731自体も腐敗しておりました。731は関東軍の秘密兵器であり、言わば虎の子部隊でした。あらゆる便宜を最優先であたえられていたことはご存知でしょう。物資や食糧だけでなく、膨大な機密予算の割当てをうけておりました。例えば昭和十五年(一九四〇年)に731が受け取った予算総額は一千万円です。内訳は研究費五百万、人件費五百万です。当時、中将から大将の年俸が八千円から一万円です。当時の731は二千名を越える人員を擁し、佐官級将校と高等官が約五十名、尉官級と判任官が六百名、雇員が七百名、傭人が七百名で、その人件費が上位からそれぞれ三十万、百五十万、七十万、三十万となり合計二百八十万となります。これに危険手当を含めても隊員の人件費総額は年間四百万円に達しなかったのです。つまり人件費だけでも百万円の余剰が生じています。  研究事業費となると、さらにいいかげんなものでした。だいたい研究や開発というものは継続性があり、特定年度の予算がその年度に対応するとはかぎりません。つまり研究事業費は先行投資的意味をもっており、すでに開発ずみのものを新たに開発したことにして帳尻を合わせられます。これからも年間百万円以上の余剰金が生じていたと見られています。また731には当時の日本が有する最高の実験用器材、医療用資材、薬品、貴金属類の膨大なストックがありました。この他731には五十万、百万単位で臨時機密費が支出されていました。これが不正腐敗を培う地味豊かな土壌となったのです。そこへもってきて、731の部隊長が好色放蕩の士、石井四郎です。石井四郎には彼の発明した濾水器《ろすいき》をめぐって陸軍御用商人との贈収賄という前歴があります。�お膳立《ぜんだ》て�は完璧《かんぺき》というわけです。731の予算流用を含む莫大《ばくだい》な使途不明金があることが当時密かにささやかれておりました。それかあらぬか石井四郎はハルピン、新京《しんきよう》、奉天《ほうてん》、大連《だいれん》の各所に女を囲っており、航空班の飛行機を使って女から女へ飛び回り、また遊蕩に耽っているということでした。これらの費用が御用商人との癒着や機密費の不正流用によって賄われている疑いが濃厚でした。それでいながら、不正がなかなか表沙汰《おもてざた》にならなかったのは、それは摘発すべき任にある関東軍ハルピン憲兵隊と結託していたからです。ハルピン憲兵隊にとって731はマルタの�売込先�として絶好の金蔓《かねづる》だったのです。731の不正を摘発することは自ら金蔓を切断するだけでなく、自分たちの不正を暴き出すことになります。こうして腐敗した土壌の上に悪魔の共存共栄が図られたのです。  しかし、ここに不正のにおいを嗅ぎつけた新聞記者がいました。満州日日新聞の山本という若い記者でしたが、彼は正義感が強く、問題意識の旺盛な優秀な新聞記者でした。彼は鬼門とされてだれも手を触れようとしなかった731の秘密に勇敢に食いつきました。ところが昭和十九年四月初めの寒い朝、彼の凍死体が傅家甸《フウジヤーデン》の入口に当たる正陽街に転がっていたのです。警察が調べてフウジャーデンの阿片窟《あへんくつ》で阿片を喫《の》んでふらふら歩いている間に道端に眠り込み凍死したのだろうということにされました。しかし、山本の同僚や友人たちは、彼には阿片常用の習慣はなかったと証言しております。山本は、731の秘密に近づきすぎて消されたというのが関係者の一致した見方でした」 「その山本という記者が楊君里の相手《パートナー》だったのですか」 「そうです」 「あなたは、どうしてそれをご存知だったのですか」 「山本君が取材に来ましてね、親しくなったのです。私は731隊員でありながら、731のあり方に批判的だったので、彼の取材に密かに協力しました。他にも何人か批判的な隊員を紹介してやりました。石井部隊長の放埒《ほうらつ》な勤務ぶりに反感を抱いていた隊員も少なくなかったのです。彼と親しくなってから、実は中国人の娘と仲良くなって子供ができたので、近く結婚するつもりだと打ち明けられました。そして休日に外出したとき、楊君里に引き合わされて診察もしてやりました。楊君里の父親はフウジャーデンで歯科医を開業しておりました。彼女とは、阿片窟の取材に来て道に迷いうろうろしているところを助けられて親しくなったそうです。ただ彼女との結婚には一つ問題がありました」 「問題というと?」 「彼女の兄が八路軍《はちろぐん》の軍医だったのです。その妹と情を通じたと知れれば、関東軍憲兵隊の絶好の餌食にされてしまいます。フウジャーデンは、スパイの巣とされていました。結婚後その事実が現われれば、一家が�敵性家族�と烙印《らくいん》を押されて、拷問にかけられるでしょう。そのために山本君は結婚をためらっていたのです。その矢先に、彼は死体となって発見されたのですよ」 「そういう事情があったので、楊君里の嬰児《えいじ》をすり替え、彼女を救ったのですね」 「そうです」 「楊の弟はなぜ救えなかったのですか」 「救援工作をする閑《ひま》もないうちに、連れ込まれて二日後に解剖されてしまったのです」 「彼が解剖されたのは、山本君の死になにかつながりがあるのですか」 「その点に関してはわかりませんが、山本君の死体が発見されて、二、三日後に少年が送り込まれて来たところをみると、なにかつながりがあったかもしれません」 「楊君里の弟は山本記者の死についてなにかを知っていたために、口を塞がれたと……?」 「その辺は推測になります」 「少年を解剖した病理研究班も共謀していたのですか」 「それはないとおもいますね。たまたま少年の標本が欲しいという事情が重なったのでしょう」 「標本は、すべて病理研究班のものになるのですか」 「そんなことはありません。一般の病理解剖も含めて、各研究班の検体の解剖を、岡本、石川両病理研究班に依嘱するのです。技手一人の解剖能力は一日三体が限界ですから、両班の技手五人が休みを取らずに出勤して一日十五体が限界です。良好な標本を採集するためには死体の鮮度が問題ですから、各班とも、早くやってくれと急《せ》かしてきます。また毒物を注入した死体でも、実験完了から解剖まで時間が短いほど完全な標本が得られます。  そのために各班とも岡本、石川班の技手には大変に気を遣ってよく接待をしていましたよ」 「しかし、それは死体の解剖の場合でしょう。生体の場合は、べつに解剖を急ぐ必要はないようにおもいますが」 「そうですね」 「すると解剖担当班に少年の急の解剖を依嘱した者がくさいということになりますね」 「そういうことになりますな」  藪下はいま気がついたような顔をした。 「少年の解剖を急がせた者はだれかわかりませんか」 「私は解剖に直接タッチしたことがないので、わかりません」 「少年の解剖を担当したのは、石川班と聞きましたが、どの技手が執刀したのかご存知ですか」 「知りません。立ち会っていなかったので」  それは橋爪に聞けばわかるであろう。解剖の依嘱者という一本の線が浮き上がってきた。 「楊君里が送られてきてから、我々は初めて少し前に解剖された少年が彼女の弟であることを知り、せめて彼女だけは我々の手でなんとか救いたいと考え、野口班の継続被験者として確保して、他班から手を出せないようにしたのです」 「少年の解剖を急がせた黒幕から、少年の姉である楊君里を確保しようとする動きはなかったのですか」 「それはありませんでした。少年と姉の両方を押えると怪しまれるとおもったのでしょうか。それとも楊君里は少年のように急いで始末する必要がなかったのかもしれません」 「あなたが、山本記者と親しかったことを黒幕は知らなかったようですね」 「知られていたら、私も消されていたかもしれませんよ。楊君里も大したことを知らなかったのでしょう。  楊を救えないまでもせめて胎児だけは救いたい。それが不正追及の途次に倒れた山本君に対する我々のできるせめてもの餞《はなむ》けであるとおもいました。  それが井崎夫人の死児|分娩《ぶんべん》という予期せざる出来事によって、山本君の忘れ形見に意外な運命が開けたのです」 「楊君里は死ぬ前に目黒区|都立大学《とりつだいがく》付近へ行ったことがわかっております。だれに会いに行ったか心当たりはありませんか」 「古館君ではないのですか。彼の仕事場があの辺にあると聞きましたが」 「古館さんは、そのとき、ご自宅におられたそうです。それに楊君里が来日して最も先に会いたいのは井崎夫妻に預けた自分の子だとおもいます。その次に、井崎夫妻、それから藪下先生、あなたではないでしょうか」 「楊君里には井崎さんや私の消息を知る手だてがなかった。それで本によって消息を知った古館君にまず会いに行ったのではないでしょうか」 「そうだとすれば、古館さんはなぜ、その事実を隠していたのでしょうか。奥さんは、楊君里が目黒へ行った時間、古館さんが自宅にいたと言っているのです」 「731のことを秘匿したかったのかもしれません。奥さんには止むを得ず話したが、部外者には語りたくない。731元部隊員の共通した心理です」 「古館さんからあなたに、楊君里が会いに来るという連絡がありましたか」 「いいえ」 「おかしいな。彼女が来日するとなれば、古館さんより彼女に因縁の深いあなたに連絡があって当然だとおもいますが」 「それは無理でしょう。連絡したくとも古館君は私の消息を知らなかったとおもいますよ。こちらは著書から彼のことを知っておりましたが特に連絡を取りませんでしたからね。彼だけでなく、731の人間とは、だれとも連絡を取り合っておりません」  棟居は、神谷勝文から聞いた「藪下技手」から、奥山謹二郎が住んでいた「ヤブ下マンション」を連想して藪下を割り出した経緯をおもいだした。 「橋爪さんが先生を懐しがっておられましたよ」 「ああ橋爪さん」  731について語るとき苦渋の色を濃くしていた藪下が、初めて茫洋《ぼうよう》たる懐旧の情を現わした。 「悪魔の狂気に取り憑《つ》かれていたような731の中で、彼だけが人間性を留めておりました。マルタをこれ以上描くことはできないと言って自らの指を切り落とした彼だけが、悪魔の城の中にあって人間であることを証明した数少ない一人でした。彼は素晴しい画才の持ち主でした。もし指が無事であれば必ずやその方面で名を成したでしょう。戦争というものは、人間の生命、身体、精神だけでなく、その才能までも破壊してしまうものです」  藪下は言及しなかったが、731のマルタを使った生体実験によって医学をはじめとする薬理、防疫、動植物、細菌学諸方面に対する貢献も、戦争が作用した一面なのである。その諸貢献によって731の存在を正当化しようとする動きがあることも事実である。  橋爪は731によって指を失い、自己の才能を破壊した。藪下は731を踏み台にして今日の名利を得た。これも戦争の両面である。      2  楊君里の身許が明らかにされてくるにつれて、事件の謎《なぞ》も濃くなってくるようである。藪下の許から帰って来た棟居は、彼女の死の背後に三十数年も前の彼女の�夫�の殺人事件? がからんでいる気配を感じた。弟も、その事件にからんで生きたまま解剖されたのか。楊君里は夫を殺した犯人を知っていたのではなかろうか。犯人にとって彼女の来日は脅威であった。もちろん殺人の罪に関してはとうに時効が完成している。だが犯人が社会的な名声を獲得している場合、たとえ時効期間が満了していても、過去の犯罪が現われるだけで現在の社会的地位に影響をうけるかもしれない。そして奥山も、犯人の旧《ふる》い犯罪を知っていた。  このように推論を手繰ると、楊君里と奥山の死は戦時中のハルピンの魔窟における日本人新聞記者殺害事件の延長線上にある。つまり、同一犯人の仕業である疑いが濃くなってきた。  犯人適格条件として考えられるのは、  一、731部隊の上層部で、同部隊の軍事機密費不正使用に関与している者。  二、楊君里の弟を誘拐した者。  三、弟の生体解剖を石川班に依嘱した者。  四、731を踏まえて戦後かなりの成功をおさめている者。  五、戦後奥山謹二郎と接触のあった者。  ——ということになる。棟居は、自分のこれまでの独自の捜査に基づいた意見を捜査会議に提出した。那須警部は、興味を惹かれた模様であるが、あまりにも「古ぼけた動機」に難色を示す者もいた。 「関東軍の一部隊、それも極秘部隊の涜職《とくしよく》に端を発しているとは、なんとも昔々の物語りで雲をつかむような感じだね」  那須班の最古参、山路部長刑事が発言すると、 「仮にその涜職に端を発しているとしても、犯人は複数ではないかな」 「どうして?」 「新聞記者を殺害した者、楊君里と弟を誘拐した者、弟を生体解剖するように手筈《てはず》をととのえた者、そして楊と奥山の殺害……こう考えてくると一人の手には余るようだ」 「731部隊と結びつけるのは危険だとおもう。棟居君が731関係者の間を歩き回っていろいろな資料を集めてきたものだから、そちらの方へ傾きかかるが、楊君里の旦那《だんな》のブンヤも涜職がらみで殺されたとはかぎらないのだ。フウジャーなんとかいうハルピンのハーレムみたいな所で死んでいたんだろう。一度迷い込んだ者は身ぐるみ剥がれて死体になっていてもおかしくない所だというじゃないか」 「楊君里が恋人を殺した犯人を知っていたとすれば、その名を黙っていたのは解《げ》せない」 「731の涜職や、新聞記者の死とは、切り離して考えたほうがいいんじゃないかな」  山路の発言によって次々に引っ張り出された意見は、棟居説に冷水をかけるものばかりであった。 「私は、たしかに古い動機ではあるが、捨てるには惜しい線だとおもいますね」  これまで黙していた横渡が口を開いた。全員の視線が彼の面に集まった。 「まず731を踏まえて成り上がった者には時効がないということです。実験データを基礎にして学界に名声を博した者も常に心に疚《やま》しさをかかえているでしょう。731には貴重な実験データのほかに膨大な資材や貴金属類のストックがあったということですね。これらを密かに持ち帰り、現在の成功の元手にした者にとっては、精神的に時効はないでしょう。そこへ楊君里が731の怨霊となって現われる。安易に結びつけるのも危険だが、切り離すこともないとおもいます」  横渡が力強い応援意見を陳《の》べた。 「すると具体的にどこから攻めるかね」  那須が、好意的な目を向けた。 「楊君里の弟はなぜ解剖されたか。この辺に鍵《かぎ》があるような気がします。ちょうど病理解剖班で少年の標本を求めていたという、犯人にとって都合のよい事情があったそうですが、少年を誘拐した者と、解剖を急がせた者はべつのようにおもいます。解剖を急がせることができる人物は、731の上層部でしょう。731の不正に関与している可能性が大きい。すると、その黒幕が気脈を通じている憲兵隊を動かして、少年や楊君里を誘拐させたという相関図式が浮かび上がってきます」 「なるほど憲兵隊か」  那須がうなずいた。 「棟居君が歩き回ってくれたおかげで731関係者何名かが浮かび上がっております。彼らの間を手分けして再聞込みすれば、731と最も密着していた元憲兵の消息がわかるかもしれません」 「その元憲兵と、奥山謹二郎の間に連絡があれば、昔々の物語りは、一挙に今日につながってくるな」  横波の応援で、棟居説の旗色が急に盛り返してきた。 「まだあります。少年の解剖を急がせた者が判明すれば、相関図式は完成します」  横渡の援護射撃をうけて、棟居は口を開いた。 「731時代の相関図が今日においても継続している可能性があります。731関係者の間を聞込みに歩いて、彼らの連帯の強いことに驚かされました。中には731の忌まわしい記憶を忘れるために、構えて731関係者やその集まりから離れている者もおりますが、日本陸軍の極秘部隊の秘密を分け合った者として固い結束をしております。彼らにとって部隊の性格はべつにして、731だけが実人生であり、それ以後は余生のようなところがあります。彼らの中で、731時代の不正を連帯にして現在も連絡し合っているグループがあるかもしれません」 「そのグループの犯行だというのかね」 「可能性の一つとして考えてもよいとおもいます」  結局その日の会議において、731の線を掘り下げることが決定された。棟居の意見が取り入れられたのである。横渡の援護射撃が大いに効を奏したわけであった。      3  だがせっかく方針決定をみたものの、その後の聞込みははかばかしい成果がなかった。まず、少年の解剖に立ち会った橋爪は、解剖の依嘱はどの班から出されたものか知らないと言った。各臓器は岡本班(病理)、内海班(血清)、湊班《コレラ》、田部班《チフス》などで分け合った。最も人気の高かった脳は執刀にあたった石川班が取ったように記憶していると答えた。  少年の解剖を急がせた者とその理由について心当たりはないかとさらに問うと、 「おそらく少年に恐怖心を起こさせる間のないように、誘拐してくっとじきに解剖してしもたがだろう」 「しかし、解剖はあらかじめ予定されているのではないのですか」 「人間相手やから予定通りにはやれん。飛び込みの解剖注文が夜中でも、明け方でも、時を選ばんと入ってくる。そのたんびに、画筆をもって解剖室へ出頭せよと呼出しがかかるがやちゃ」 「生体解剖でも突然飛び込むことがあるのですか」 「死体の解剖ほどでかいとはないけど、ないことはないちゃ」 「少年の解剖を執刀した技手はだれでしたか」 「石川班のコトという技手だけれど、その後の消息は知らんがよ」 「そのとき解剖に立ち会っていた石川班員はじめ各班の研究者の消息を知りませんか」 「知らんちゃ。彼らとは戦後ぜんぜんつきあいをしとらんが」  結局橋爪からは、生体解剖の黒幕についてなにも得られなかった。これまで�開拓�した731関係者の間を再度聞き歩いて、 「マルタ相手の手術で腕を磨き、数々の難手術をこなして日本医学界で名声を得、有名国立大学の教授として叙勲された人もいます」  という証言を引き金に、マルタの解剖を担当した病理研究班の関係者が、京都大学、岡山大学、金沢大学などにいることが突き止められた。また各地で医院を開業したり、病院に勤めたり企業の重要ポストに迎えられたりしている者もいた。彼らはいずれも731の研究を踏まえて学派のボスになったり、退官後も学説を発表して国際的名声を博したり、それぞれが社会の日当たりのよい位置におさまっていた。  だが上級隊員の口は固く、手分けしての聞込みに対していっさい黙秘を通した。ほとんどが門前払いで、稀に本人に会えても、731でのことはすべて忘れた帰ってくれの一点張りであった。  彼らの名声の基礎になっている731は、彼らにとって最も触れられたくない弱みであり、同時に恥部なのである。  棟居は、彼らの間を聞込みに回りながら、731から遠ざかっている者に、橋爪のように忌むべき戦争体験として忘れたがっている人間と731からなんらかの利益を得て、それに後ろめたさを覚えて隠したがっているグループがあることを悟った。  731でマルタ相手の実験のし放題で腕を磨いた者は、後者に属し、おおむね、社会の居心地よい位置におさまっている。こういう人たちが、731での生体実験について語りたがらないのは当然であった。それにマルタの手術は連日殺到し、いまとなっては彼らの記憶も曖昧《あいまい》になっている。  少年の解剖を執刀したコトという技手の消息は杳《よう》として知れなかった。たとえ彼を探し出せたとしても技手は班長(技師)の命令によって執刀にあたるだけであるから、黒幕はわからないだろう。 [#改ページ]   悪魔の金蔓《かねづる》      1  解剖担当者の聞込みが徒労に終ったとき、棟居の胸裡《きようり》に藪下の言葉が比重を増してきた。——731の予算流用を含む莫大な使途不明金——と藪下は言った。そして機密予算の内訳を具体的な数字を挙げて説明した。  経理関係者でもなかった藪下が、どうしてそこまで知っていたのか。使途不明金の存在については731内部で密かにささやかれていたそうだが、噂はそこまで具体的な数字にまで及んでいたのであろうか。だがそこまでの具体性があれば、もはや噂ではない。不正の実態が公然の秘密となっていたほど、731は腐敗していたのか。その腐敗の根が戦後にまで拡がっていないか。  棟居は、この点について再三、藪下に確かめてみた。 「さすがは刑事さんですな。実は731時代、レクリエーションにテニスをやっていましてな、同好のメンバーに経理部の人間がいてそっと漏らしてくれたのです」 「ほう、731でもテニスをやっていたのですか」  棟居が感心したように言うと、 「731部隊員も人間ですよ。細菌の培養やマルタの解剖ばかりやっていられません。テニスの他に相撲、野球、演劇、盆踊りの大会、運動会、音楽祭などもやったものです」  藪下の口調がやや抗議調になった。棟居はやや慌てた。こんなことでこの貴重な協力者を怒らせてはならない。 「いや当時は、野球とかテニスなどは敵性のスポーツとして内地では忌避されていたと聞いておりますので」  当時幼かった棟居には、母に去られた後の父一人子一人の寂しい家庭の記憶しかない。 「外地では、そんなことはありませんでした。レクリエーションは比較的自由でした。お国のために前線に来ているのだという意識があったのと、軍人より、医者や研究者が中心になっていたのでスポーツやレクリエーションはリベラルな雰囲気でした」 「それでその経理部の人はいまどちらにおられるかご存知ですか」  棟居は、藪下の面を見つめた。ただ一筋の手がかりが藪下の答えにかかっている。 「ラッキーと言いましょうか。つい最近その人から連絡がありました」 「連絡が!?」 「先日あるテレビに頼まれまして、医学コーナーにゲストとして出演したのです。それをたまたま彼が見ていて、懐しがって電話をかけてきたのです。いやテレビの威力は凄《すご》いものですな。午前中の中途半端な時間にもかかわらず、その他数名の消息が絶えていた知人から連絡がありましたよ」  棟居は藪下によくぞテレビに出てくれたと言いたかった。戦後731と絶縁していた彼がその経理関係者と最近連絡したとは、まさにラッキーである。  藪下から聞いた731の元経理関係者の名前は、井上泰一、埼玉県|和光《わこう》市の団地に住んでおり、現在、地域の公民館長や老人クラブ会長などをつとめて悠々自適の生活を送っているということである。  棟居は、早速、井上の家へ出かけた。ちょうど土曜日であった。あらかじめ、所轄の朝霞《あさか》署に問い合わせると井上が住んでいる和光市の「南《みなみ》大和《やまと》団地」には、東武東上《とうぶとうじよう》線|成増《なります》からバスが出ている。団地の中央に「越後山《えちごやま》」という停留所があるからそこで下車するとよいだろうと教えてくれた。  池袋から東上線の準急電車に乗り、最初の停車駅が成増である。棟居が電車から下り立ったのは、午後三時ごろであった。駅前の広場は狭く、その狭いスペースの中央を噴水が占めている。各種商店やスーパーが軒を連ね、土曜の午後の買物客が犇《ひしめ》いている。その間を縫うようにしてバス、タクシー、乗用車が絶え間なく警笛を鳴らしている。  バス乗り場はすぐに見つかった。やがて来たバスは川越街道《かわごえかいどう》を西へ走り、埼玉県へ入った。国立埼玉病院前で老女が何人も乗って来た。  教えられた「越後山」でバスを下りると、目の前が目指す南大和団地であった。それは棟居が想像していた「団地」とはだいぶ趣きを異にしていた。  この団地の建物は道路に沿って東西に一直線に長く伸びている。団地と言うよりは、�長地�または�連地�と呼びたいような各棟が一直線に細長く連なっているだけである。団地としては小型で、ざっと十四、五棟、一棟平均二十五—三十世帯ぐらいとして四百世帯前後か。  団地の北面には金網のフェンスを隔てて、広大な緑地が広がっている。なにかの跡地のようなスペースに枝ぶりの見事な松を始めとして桜、櫟《くぬぎ》、楢《なら》、楡《にれ》、ヒマラヤ杉、セコイアなど多種多様の樹木が混生している。野鳥も豊富に生息していそうである。  木《こ》の間越し遠方にべつの団地の建物が隠見する。井上泰一の住む号棟と部屋まではわかっていない。団地の中央に管理事務所があったので、そこで質ねると、中年の色白の女性が「二号棟409号室」だと愛想よく教えてくれた。  管理人が教えてくれた通りに団地の道路を奥(西)の方へ進み、端から二番目の二号棟を探し当てた。井上の家は二号棟の西の棟末の四階であった。階段の袂《たもと》にある集合メールボックスの409の氏名欄《ネームラツク》はブランクになっている。  409号室の表札には井上の名前があった。呼吸を整えてブザーを押すと、屋内に女性の返答が聞こえて優しげな面立ちの老女がドアを開いた。  棟居は、名刺を差し出しながら藪下清秀から紹介されて来たと告げて、「ご主人はご在宅ですか」と問うた。  公民館の館長という奉仕職ならば週末の午後の在宅率が高いだろうと見当をつけて来たのであるが、細君はろくに名刺を見もせずに、「さあさあ、どうぞお入り下さいまし」と手を取らんばかりにして引き入れた。  あまりすんなりと招じ入れられたので、構えてきた棟居はむしろ肩すかしを食わされたような気分になった。南面のベランダに面する明るい部屋に通された。和室に絨毯《じゆうたん》を敷き、洋風のリビングルームに改造してある。  窓の外には、ちまちました家並みが視野のかぎりに広がり、その果てを新宿副都心とおぼしき超高層ビルが、墓石のように限っている。埼玉県のはずれまで来ても、武蔵野のおもかげは人家の侵蝕《しんしよく》に寸断されてもはや求むべくもない。東京の膨張と乱開発の凄まじさを実景として見せつけられたおもいであった。  細君が茶菓を運んで来た。 「どうぞ、おかまいなく」  棟居は恐縮した。731関係者の家で初めて示された暖かい歓迎に、すぐに馴染めず、とまどいのほうが先立つ。ソファを勧められ、改めて初対面の挨拶を交わす。  井上は一見七十前後の見事な白髪の穏やかな風貌《ふうぼう》の老人である。茶を淹《い》れた老妻が影のようにかたわらに控えている。子供たちはすでに独立して巣立ってしまったのか、家の中に、他の家人の気配はない。 「以前このあたりは越後山といい、風当たりの最も強い場所でした。道路一本隔てて南は東京都ですが以前は見渡す限りの練馬《ねりま》大根の畑で、春先の風の強い日は言葉どおりの黄塵万丈《こうじんばんじよう》でしたよ。朝ベランダに洗濯物を干しておくと夕方取り入れるときにはもう一度洗い直さなければならないほどでした。この団地が造設されたので裏手の米軍基地の防風林ができたと基地指今官が放言して問題になったことがあります」 「裏の緑地は、米軍基地の跡だったのですか」  棟居は来るときにフェンス越しに見た広大な緑地をおもった。 「モモテハイツと言いましてね、米陸軍基地中関東随一のゴルフコースがあった所ですよ」 「いまはどうなっているのですか」 「仄聞《そくぶん》したところ、大蔵省が基地跡地を三分割して時価でなければ売らないと頑張っているので、貧乏市には買えず、目下野鳥の天国になっています。カッコーが鳴き、夜になるとフクロウが鳴きます」 「深山のおもむきですね」 「そうです。ヤマバトやキツツキもいますよ。逃げ出したペットのカナリヤやインコが野生化して群れて飛んでます。リスやウサギだっています。そのうち死体の隠し場所に利用されるかもしれない。そうなったら大蔵省も値下げするでしょう」  井上は物騒なことを言いだした。 「しかし、南側もなかなかの見晴しですね」  棟居は目をベランダ越しに広がる南面の眺望に向けた。 「いまは見るとおりの宅地となって、おかげで埃《ほこり》は以前ほどひどくはなくなりました。最近では埃の代りに排気ガスが入って来ます。よく晴れた日には富士山も見えますよ」  井上はゆっくりと茶を啜《すす》りながら遠方へ目を泳がせた。彼にはこの風景が自慢らしい。 「本日おうかがいいたしましたのは……」  初対面の雑談が一通りすんだところで、棟居は、本論に入った。 「ご趣旨はよくわかりました。奥山さんならば私も多少存じ上げております。私の知っていることでお役に立つならなんなりとお話しいたしましょう。たしかに当時の731上層部の腐敗ぶりには目を覆うものがございました。帝国陸軍の虎の子部隊の幹部がこんなことでよいのかと私などは、経理にいて数字を握っていただけに戦争の前途に暗澹《あんたん》たるものを覚えたものです。しかし我々如きがなにを言おうと、だれも耳を貸してくれません。なにしろ憲兵隊までが、同穴の貉《むじな》だったのですから、下手をすれば、山本さんのように消されてしまいます」 「山本記者に不正の情報を流したのは、あなたですか」 「私の許にも密かに取材に見えましたが、多方面からかなりデータを集めておられたようです」 「不正の一味と内実はどんなだったのですか」 「昭和十七年七月いわゆる関東軍特別大演習の直後、石井部隊長はその任を解かれ、代わって北野政次が731の部隊長として赴任して来ました。石井解任の真の理由は、膨大な使途不明金の発覚です。不正が発覚する端緒は、731の施設として建設された63棟大講堂をめぐる疑惑です。関東軍司令部に提出された建設計画書と、完成した実際の建物が大きく食いちがっていたことが陸軍参謀本部の疑惑を引いたということです。第二の疑惑は、731出入りの軍需商人と幹部との贈収賄です。731には膨大な薬品、医療用器材、実験用器材、建設用資材、食糧品などが納入されておりましたが、これを納品する商人と幹部が癒着して、物品の横流しや水増し請求、業者からのリベート受取りなどが行なわれていた模様です。また疑惑の第三はハルピン憲兵隊本部と同特務機関とのマルタ移送をめぐっての手数料授受です。当時731に関係していた憲兵や、特務機関員の豪遊は公然の秘密となっておりました。新京、ハルピン、奉天などの花街で札ビラを切りながら、おれには金蔓があるんだと豪語していた731関係の憲兵もいたそうです。63棟講堂の建設費をめぐる涜職に端を発した不正は陸軍参謀本部の特別査察にまで発展し、余罪が次々に引き出されました。多くの連座者を出し、遂に不正の元凶として石井部隊長の解任となったのです」 「石井が解任されたのは、昭和十七年の七月とおっしゃいましたね」 「そうです」  山本記者がフウジャーデンで死体となって発見され、楊君里の弟が731へ連れ込まれたのが、昭和十九年の四月頃とされている。石井が解任されてから一年八か月以上経っている。  それでは、藪下が示唆したように731の涜職を摘発しようとして抹殺されたのではないことになる。 「石井は更迭されましたが、不正の根がすべて剔抉《てつけつ》されたわけではありません。むしろ石井一人が責任を取ってさっさと南京《ナンキン》の方へ行ってしまったために、不正の根が温存されてしまいました。石井のおかげで首が飛ばずにすんだ幹部が少なくなかったのです。彼らにとって山本君の追及は脅威だったはずです」  井上は、棟居の胸の裡《うち》を読んだように言った。 「いかがでしょう。彼らの中で山本記者が最も肉薄していた人物、あるいは山本記者に表沙汰にされると最も不利益を蒙《こうむ》る人物はだれでしたか」  棟居は質問の核心に入った。 「石井部隊長の側近はみな戦々|兢々《きようきよう》としておりましたよ」 「山本記者を恐れ、ハルピン憲兵本部と密着し、病理研究班に少年の解剖を急がせることのできる人物についてお心当たりはありませんか」  棟居の凝視をうけて、井上は慎重な面持で、 「数名の幹部の名前が頭に浮かびますが、迂闊《うかつ》には申し上げられませんね。いずれも現在それぞれの分野で重きを成している方たちばかりですから」 「参考までにお聞かせいただきたいのです。べつにその人たちを疑うわけではありません」  棟居は熱心に説得した。 「私の当て推量にすぎませんから、ノミネイトするのは控えておきましょう」  ここまで迫りながら、井上は口に錠《じよう》を下してしまった。こうなってしまうと731関係者は梃子《てこ》でも口を開かない。棟居は質問の鉾先《ほこさき》を変えることにした。 「先ほど第三の疑惑とおっしゃいましたハルピン憲兵隊とのマルタ売買ですが、実際にどの程度の金額が支払われたのですか」 「まとめて五千円から一万円ぐらいの金額が時々支払われていたようです。その金は臨時機密費から出ており、表の会計帳簿にはのりません。マルタによって値段のちがいがあったようで、平均一人百円、男より女マルタ、中国人よりロシア人のほうが高かったようです。稀少価値があったのでしょう」  一人百円と言えば、雇員の月給をやや超える。雇員の月給で人間一人が売買されていたのである。 「金は現金で直接支払ったのですか、それとも銀行にでも振り込んだのですか」 「証拠を残さないように移送の都度、担当者に直接支払っていたようです」 「マルタの移送を担当した憲兵もしくは特務機関員をご存知ですか」 「私が金を渡したわけではありませんのでだれに支払ったかわかりません。経理課長が直接移送者に支払っておりました」 「その場に立ち会ったことはありませんか」 「金銭の授受は目撃したことはありませんが、一度だけマルタ移送受け渡しの場面を見たことがあります」 「それは……」  棟居は、誘導の鉤先《かぎさき》にかかった大獲物の気配に固唾《かたず》をのんだ。 「昭和十九年の五月末に近い日の夜でした。私は用事があって日直士官の部屋へ行きました。連絡事項を伝えて帰ろうとすると、彼はにやにや笑いながら間もなく面白いものが到着するから見物していかないかと言うのです。私はマルタが来るなとピンときました。マルタの移送は原則として夜間極秘裡に行なわれるということでしたが、私は見たことがありませんでした。私は大いに興味をそそられてぜひ見せてくれと頼むと、日直士官はおれに従《つ》いて来いと言って本部の前庭に面する総務部の一室へ連れ込みました。前庭には憲兵が整列しておりなにやらものものしい気配でした。間もなく窓のない二トンほどの冷凍車のような黒い車がハルピン憲兵本部の車に先導されて入って来ました。後部扉が開かれて二十名ほどの中国人を主体にした男たちが下りて来ました。ロシア人も数名いたようです。女はいませんでした。全員|手錠《てじよう》と足枷《あしかせ》をはめられていました。私は一目見て、マルタだと悟りました。特設監獄を管理している特別班員がマルタの数を数えて、ロ号棟へ通じる地下通路の方へマルタを引き立てました。警護して来た憲兵もロ号棟の中へは入りませんでした。因《ちな》みに監獄を管理する特別班は、班長に石井部隊長の長兄を据え、班員の大部分を部隊長の郷里である千葉県|芝山《しばやま》町の出身者で固めておりました。マルタの秘密が漏れるのを防ぐために石井部隊長は特別班を身内と同郷の者で占めたのです。マルタの受け渡しが終り、移送して来た憲兵たちは、車に乗って帰って行きました。護衛に当たった憲兵は、五、六名だったようです」 「そのとき手数料の受け渡しは行なわれていましたか」 「暗いうえに距離があったので、確認できませんでしたが、経理課長が立ち会っていたことは確かです」 「憲兵のほうに特徴のある人間はいませんでしたか」 「一人印象に残っている憲兵がおります。護衛して来た憲兵の隊長だとおもうのですが、マルタを渡して帰るとき左手で敬礼したのです」 「左手で?」 「後になって、あれは右手になんらかの故障があって止むを得ず左手で敬礼したのではなかったのかとおもいました」 「すると右手がないとか……」 「腕はあったようでしたから、故障があったとすれば手先の方でしょうね」 「当時のハルピン憲兵隊本部付きで、右手に故障のある憲兵は何人もいなかったでしょう」 「マルタの移送は、ハルピン憲兵隊本部の中の特別な組織が担当していたと聞きました。彼らは、金がなくなると�マルタ狩り�をして中国人一般市民を就職の斡旋をしてやるなどと欺いて、まずハルピン市内の日本領事館の地下に設けられた秘密の中継《タマリ》場に送り込み、一定数に達したところで731へ送り込んだそうです。タマリ場にいる間は、731送りの気配を悟らせないように手錠も足枷もつけず、待遇にも気を配っていたという話でした。まことに残酷な�永久就職�にはちがいありませんがね」 「そのハルピン憲兵隊本部のマルタ狩り組織の中に右手に故障のある憲兵がいたのですね」 「マルタの間にハルピン憲兵隊に�単手鬼《ダンシヨークイ》�がいるという噂があったそうです。便衣隊(平服を着た中国人後方|攪乱《かくらん》隊)の投げた手榴弾《てりゆうだん》が当たり、右手首を失ってから、狂ったようにマルタ狩りをして恐れられていたそうです」 「単手鬼?」 「その単手鬼が、左手で敬礼をした憲兵かどうかわかりません。とにかくハルピン憲兵隊のマルタ移送組織は謎《なぞ》に包まれていました。もちろん戦後戦友会のような組織もありませんし、731の集まりにも加わっておりません。731特別班員ならば、単手鬼の正体について知っているかもしれませんが、特別班員も一人も戦友会に入っておりません」 「単手鬼が山本記者の殺害と、楊君里および弟の誘拐に関係している可能性はないでしょうか」 「可能性はあるでしょうね。とにかくマルタの移送を担当していたのはハルピン憲兵隊本部と同特務機関であったことは確かなのですから」 「彼らが奥山さんの死因にも関与していると仮定すれば、奥山さんがその辺の事情を知っていたことになりますね」 「奥山さんが何を知っていたか、私は知りませんが、彼がなにを知っていたとしても、あれから三十何年も経過しているから時効でしょう」 「時効は、本人の心の問題です。本人の心が時効になっていなければ、奥山さんの存在は脅威です。ただ奥山さんがどうして、ハルピン憲兵隊本部マルタ移送班の秘密を知り得たのか」 「奥山さんとハルピン憲兵隊本部との間に関係があったとはおもえませんね。彼らと緊密な関係にあったのは特設監獄の特別班だけです」 「奥山さんと特別班とはどうでしょう」 「特別班は731のブラックボックスでした。731自体が極秘部隊でしたが極秘中の極秘セクションで先にも申し上げましたように石井部隊長の�同族経営�でした。他のセクションとの交流は皆無でしたね」  井上の証言によって、ハルピン憲兵隊本部の�単手鬼�の存在が浮かび上がったが、果たして彼が山本記者、楊君里、その弟、奥山老人につながっていくかどうかわからない。  731の暗黒は深く、幾重にもガードされていた。井上家を辞去したとき、短い秋の日はとっぷりと暮れていた。夏の夕暮とちがって、秋は残照時間が短い。ほとんど残照がないと言ってよいくらいに日が落ちるとすぐに暗くなってしまう。  楊君里が死んですでに半年近く経過したが、いまだになんの手がかりもつかめない。彼女の死因を731部隊に溯《さかのぼ》ったのは誤りだったのではないのか、奥山謹二郎の死も老残の孤独死だったのではないか。  来たときはバスに乗ったが、帰途は便が悪く見当をつけた駅の方角へ背を丸めて歩いて行く。その背中に木枯しが吹きつけてきた。寒いし、腹もへりかけていた。それが棟居の弱気をうながしていた。  暗い道を当てずっぽうに伝っていると、ようやく人影が多くなって明るい灯が密集している商店街へ出た。棟居は少しホッとして灯群れの中に食べ物屋を探した。空虚感を訴えかける胃に、なにか温かい食べ物を入れようとおもったのである。  その彼の目に鮮やかな色彩が映えた。果物屋と花屋の店が隣り合っていたのである。果物屋には柑橘《かんきつ》類の黄が、花屋には、バラやカンナの赤が目立った。  その色彩が棟居の意識の中で楊君里の死体のかたわらにあったレモンと奥山が好きだったというグロキシニアに重なった。さらにその背後で楊君里の涙によって頬を濡《ぬ》らした嬰児と生きながら解剖された少年とがオーバーラップした。  嬰児が成長し、その後どのような人生航路を辿《たど》ったとしても、母が我が子の生命を救うためにその頬に流した涙は、子の心の底に沈着して生涯乾くことはあるまい。  また、麻酔によって眠らされている間に身体を空洞にされた少年は、いったいどんな夢を見ていたのであろうか。生きていれば将来に多数の人々と出会い、恋もし、どんな可能性の花を開いたかもわからない。ホルマリン容器に浸された後も蠕動《ぜんどう》を止めなかったという少年の臓器は、無限の可能性を無惨に摘み取った者に対する精一杯の怨嗟《えんさ》を訴えていたのではないのか。あの嬰児の頬を濡らした母の涙と、少年の切り取られた臓器の震えを忘れてはなるまい。  それは捜査員としてだけではなく、日本人全体の責任である。棟居は弱気から立ち直っていた。      2  731における涜職の実態とハルピン憲兵隊本部との癒着の様相はかなり輪郭がはっきりしてきたが、それは事件の解明に少しもつながってこない。731関係者に�単手鬼�について聞いて回ったが、噂を聞いた者はあっても、正確に身許を知っている者はいなかった。  那須が言った「攻め口」は悉《ことごと》く失われた観があった。  本部では、動機を731以外の所に求めようとする意見が大勢になってきた。最盛時三千名もいたという731部隊の元隊員が老死したからといって、それを来日した中国人通訳の死に結びつけること自体が乱暴である——というすでに何度も検討されて淘汰《とうた》されたはずの意見が息を吹き返し、主流となってきたのである。  捜査本部全体にいや気がさしていた。同じ捜査本部事件でも、社会的反響の大きい凶悪または特異重要事件となると、マスコミの目も注がれ本部も活気づくが、老人のマンション曖昧死《あいまいし》の捜査でははなはだ意気が上がらない。捜査員はもっと切羽つまった事件の方に間引かれ、捜査本部には文字通りの秋風が吹いている。  捜査員も人間である。どうせ手がけるならマスコミの目の集中する華やかなヤマを担当したいという意識が心の片隅にある。老人の死因を明らかにしたところで世の賞讃を浴びることはまずない。そんな意識が捜査の姿勢を消極的にしていることを否めない。しかも「駒込」において、楊君里のかたわらにあったレモンの色を知っている者は、棟居一人なのであった。今回は、那須班のメンバーをあまり使えない。棟居は、この捜査に孤立無援を感じていた。  棟居は731にこだわった。楊君里のレモンは、特設監獄に残された我が子の形見としてのレモンから発しているにちがいない。一個のレモンに母親の悲しみと戦争の悲劇が象徴されているのだ。そんなレモンが何個もあるはずがない。  そしてそのレモンの黄色が、グロキシニアの赤につながっていく。  棟居は蒐集《しゆうしゆう》した731の資料の中になにか見落しているものがないか再検討してみることにした。731の元隊員の間を歩き回って集めた資料をこれまではそれぞれ独立して観察してきた。これを総合して、トータルな視点から見なおしたら、なにか新たな発見がないだろうか。  まず少年隊員四人組の中西から、731時代の奥山の同僚神谷勝文の存在を知った。神谷から奥山が前橋に一時住んでいたこと、および女マルタが一人生き残った事実、さらに奥山の娘の婚約者、藪下清秀の存在を聞き出した。  藪下を訪ねて、遂に楊君里の身許を突き止め、レモンの謂《いわれ》を知った。  731部隊の全国大会に出席して元少年隊員の会話から、楊君里の弟が生きたまま解剖されたことおよび解剖に立ち会った元少年隊員三沢を手繰り出した。三沢から戦慄《せんりつ》すべき生体解剖の実態と、奥山と親しかった�軍画兵�橋爪の存在を聞いた。  橋爪の許を訪ねて、奥山の遺句の由来が判明した。橋爪の示唆によって、再度藪下を訪ね、楊君里の胎児の父親が山本という新聞記者であり、彼は731の軍事機密費をめぐる不正とハルピン憲兵隊との間のマルタ売買を追及している間に怪死した事実が浮かび上がった。楊君里の弟はその事件についてなにかを知っていたために解剖された。  楊君里と奥山の死は、この事件に由来している。——とにらんで、さらに藪下から731元経理課員井上泰一へ捜査の触手を伸ばし、ハルピン憲兵隊の中に�単手鬼�とマルタ狩り班がいたことを探り出した。  以上がこれまでの捜査の経緯であり、蒐集したすべての資料である。  これを総合的に検討してなにか新しい発見はないだろうか。棟居は丹念に再検討をした。  二度三度検討を加えるうちに、次第に違和感を増してきたものがあった。初めの間はスムーズに意識におさまっていたものが、検討を重ねる都度、坐りが悪くなってきたのである。  この不安定感はどこから来るのか? 棟居は凝視した。凝視した先に動揺していたものが、からめとられた。  ——藪下は実験に必要であると称して夜間、楊君里の嬰児を特設監獄から運び出した後、今度は井崎の死児をさも生きているように見せかけて、楊君里の許へ運び入れた。翌朝看守は嬰児が死んでいるのを発見した——ということである。  しかし特設監獄は、731のブラックボックスであり、そこは石井一族と同郷者によって�同族経営�されていたのではなかったのか。  万全の計画の下に行なわれたのであろうが、それにしてもうまくいきすぎたような気がする。要図を見ると、藪下の属していた野口班は、ロ号棟の外に離れて独立している。当然出入の都度看守のチェックをうけたのではないのか。マルタを管理する特別班員となれば顔なじみの衛兵の比ではあるまい。  藪下は、地獄の獄卒とも言うべき特別班員のチェックを二度も潜り抜けている。棟居は藪下の言葉をおもいだした。  ——「翌朝、監獄の看守は楊の嬰児が死んでいるのを発見しました。楊はシナリオ通りの口上をしゃべり、看守はなんの疑いももたずに[#「なんの疑いももたずに」に傍点]上司に報告しました。その死体を野口班が実験に必要だからという口実でもらいうけました」——  なんの疑いももたずに——とは、特別班員としてはずいぶん甘いものである。棟居はここで一つの重大な盲点に気づいた。楊君里の子供は「智恵子」と名づけられて、井崎夫婦に引き取られたが、井崎夫人の産んだ死児の性別は明らかにされていない。嬰児をすり替えたのであるから、当然両方共、女児だと考えていたが、藪下は井崎夫人の死児の性別については触れていなかったのである。  もし井崎夫人の死児が男の児であったなら嬰児すり替えは無理であろう。楊君里の嬰児が死んでいたら、当然看守としては死体を検《あらた》めたであろう。それが一夜にして性別が変っていたなら、そこで疑いをもったはずだ。  藪下が井崎の死児の性別について言及しなかったのは、すり替えを可能にする土台として当然のことであったからか。だが、もしそうでなければ……棟居の疑惑は水を含んだスポンジのように脹《ふく》らんできた。 [#改ページ]   すり替えの同行者      1  再三、再四の棟居の訪問をうけた藪下は新たな質問にハッとおもいだした表情をして、 「そうだ、そう言えば、あのとき岡本班の技手が同行していましたな」 「岡本班の技手? なぜ同行していたのですか」 「楊君里は野口班の継続検体として確保しておりましたが、女マルタの胎児は病理研究班の所有物となることになっていたのです。奥山さんが岡本班の技師と親しいということで、口をきいてくれまして、その技師の部下の技手がすり替えに同行してくれたのです。特別班員のチェックは厳しいのですが、マルタが死んだ場合すぐに解剖してもらわないと始末に困るので、解剖を執刀する病理班の技手には、低姿勢でした。チェックも形式的なものでした」 「奥山さんが口をきいてくれたという岡本班の技師と、すり替えに同行した技手の名前を教えてくれませんか」 「技師の名前は知りません。技手はナジカ沢といいました」 「ナジカ沢? 珍しい名前ですね、どういう字を書くのですか」 「馴鹿《トナカイ》と書いて馴鹿《なじか》と読むのだそうです。私も珍しい名前なので憶《おぼ》えているのです」 「その後の消息はご存知ですか」 「知りません。セクションもちがいましたし、それ以後会っていません。731には常時二千人ぐらいの人間が働いていましたが、たがいに何をやっている人間か知りません。セクションがちがえば、べつの宇宙の人間なのです」 「奥山さんは、どうしてべつの宇宙の技師を知っていたのですか」 「わかりません」 「あなたは、そのことをどうして初めに話してくださらなかったのですか」 「私自身も忘れかけていたのです。あなたに言われておもいだしたくらいです」 「特設監獄にフリーパスのような岡本班の技師と奥山さんが親しかったということは、重大な事実ですよ。どだい、奥山さんが岡本班の技師と親しくなければこの計画は発しなかったのではないのですか」  棟居の口調がつい咎《とが》めるようになった。 「申しわけありません。技師の名前は知らないし、同行してくれた技手の消息も不明なので、意識の中で薄れていたのです」 「それで井崎さんの胎児の性別は?」 「男の児でした」 「それではなおさら岡本班の助けが要ったわけですね」 「そうです」 「マルタの嬰児をすり替えたとなると露顕すれば重大な罪になるでしょう。それに岡本班の技師や技手が加担したということは、奥山さんが彼らにかなりの影響力をもっていたことになりますね。少年隊員の教官が、なぜ岡本班にそんな影響力をもっていたかお心当たりはありませんか」 「べつにおもい当たることはありませんが」 「先生が731について話したがらないお気持はわかりますが、我々は奥山さんの曖昧な死因を明らかにしたいだけです。どうかご協力いただけませんか」  藪下はこれまで四度にわたって知っていることを小出しにしてきた。まだ藪下が胸にしまっているものがあるかもしれないと棟居はおもった。 「いや本当に知らないのですよ」  藪下は当惑したように目を逸《そ》らした。  奥山が岡本班の技師と親しかったというのは、新情報である。ただ親しいというだけでこれほど危険な計画に加担するものだろうか。岡本班の技師と奥山とのつながりの中になにかないだろうか。そのつながりの延長線上で奥山は死んだのでは?  だが技師の名前も消息もいっさいわからない。ただ一つの手がかりは、「馴鹿沢」という岡本班の技手の名前だけである。  岡本班の馴鹿沢、彼はいまいったいどこにいるのか。馴鹿沢が技師の名前も知っており、技師と奥山のつながりにも介入しているはずである。なぜなら技手自身も上司の技師の命令とは言え、危険な計画に参加しているからである。  いったん帰署した棟居は、|美ケ原《うつくしがはら》の「全国大会」で得た731戦友会名簿を見た。これは神谷のエスコートとして身分を隠して出席したので、棟居の許にも�準会員�として送られてきたものである。だがその中に岡本班の出席者はいなかった。岡本班だけでなく、731の中核とも言うべき、部隊長直結の特別班と、第一部所属の諸研究班からの出席者は一人もいなかった。  棟居は再び橋爪と三沢の助けを求めた。彼らは岡本、石川両班に所属して多くの生体実験や解剖に立ち会っているので、馴鹿沢という技手を知っているかもしれない。  棟居の問い合わせの電話に凍傷研究班との関係が深かった橋爪は知らないと答えたが、三沢は岡本班にはたしかに「馴鹿沢」がいたと言った。 「珍しい姓なので憶えているのです。手技の抜群の人で岡本班の病理解剖の主なものは、その人が執刀していたとおもいます。生家はなんでも徳川時代からの由緒ある家で、将軍家に大鹿の角を上納したところ大変評判がよく苗字帯刀を許されたと自慢話をしていたのを聞いたことがあります」 「鹿の角をね、その馴鹿沢がいまどこにいるかご存知ですか」 「知りません」 「それでは馴鹿沢と親しかった技師を知りませんか。馴鹿沢の直属上司の技師で馴鹿沢がその命令を断われない立場にある技師です」 「岡本班のチーフは岡本という医学者で、ある国立大学の先生でした。私が岡本班に配属されたのは昭和十八年三月初めからですが、そのころにはすでに帰国していませんでした。技師たちには生体実験にいや気がさして途中から帰国してしまう人も少なくありませんでした。昭和十九年末になるとさらに人数が減って岡本、石川両班は合併しました」  嬰児のすり替えは昭和二十年一月初旬に行なわれたのであるからそのときは岡本班長はいなかったことになる。 「するとだれが岡本班の最高責任者だったのですか」 「よくわからないのです。技師は絶えず交替していました。それに少年隊員は正式の班員《メンバー》ではなく実地学習として�配置�されただけですから、極秘軍機である各班の構成などは知らされません。班員の正式な紹介もされませんでした。班員同士が呼び合っている名前から推測するだけです。とにかく研究の邪魔にならないように身を縮めて学習しておりました。技師はいずれも日本の偉い学者だと聞かされており、少年隊員は恐くて口もきけませんでしたよ」  結局三沢も、技師の名前と馴鹿沢技手の消息を知らなかった。落胆した棟居の気配に、三沢は「もしかすると、園池さんなら消息を知っているかもしれないな」と半ば独り言のようにつぶやいた。 「そのいけさんとはどういう方ですか」  棟居はそのつぶやきに飛びついた。三沢の話によると、「731生え抜きの隊員」を養成するためにまだ親に甘えていたい年齢に、遠く北満の地に連れて来られて猛烈な詰め込み教育と軍事教練を施されている少年隊員たちの姿は、さすがに731幹部の目にも我が子と比べて憐愍《れんびん》の情を誘い、教官たちは、休日や�放課後�に代わるがわる自分の官舎へ招いて家庭料理を振舞った。  教官の夫人や娘たちがつくる手料理や、当時内地では、夢の食べ物となった、小豆《あずき》と砂糖をふんだんに使ったおはぎなどは、女手のぬくもりを感じさせる家庭の雰囲気と共に望郷の想いに胸を咬《か》まれる少年たちをこよなく慰めた。  彼らの交流の間に当然|贔屓《ひいき》の教官と少年の関係ができてくる。 「私は、園池という数学の陸軍教授に特に可愛がられて、よくお宅に招かれてご馳走《ちそう》になったものです。ある日曜日園池さんのお宅におうかがいしたとき、偶然、隣りの官舎から出て行く馴鹿沢さんの姿を見かけたのです。奥さん同士がとても親しそうに挨拶《あいさつ》していました。園池さんなら馴鹿沢さんの消息を知っているかもしれません」 「園池さんのご住所はご存知なのですか」  棟居は期待をかけて聞いた。三沢がわざわざ園池の名を挙げたからには、なんらかの彼の手がかりをつかんでいるのであろう。果たせるかな、「731関係者とはすべて絶縁しておりますが、園池さんとだけは帰国以来年賀状を交換しております。現在、東京の大田区にお住まいになっておられます。五、六年前までF通信器というコンピューターの大手メーカーに勤めておられましたが、定年退職後、奥さんとごいっしょに悠々自適の生活を送っておられます」  大田区とは、棟居にとって地の利のよい所に住んでいてくれたものである。あえかな手がかりの糸は、切れかけてはまた細々とつながっていったのである。      2  園池の家は、大田区|南久《みなみく》が原《はら》の一角にある。池上《いけがみ》線久が原駅から閑静な住宅街を電柱や街角の番地表示板を頼りに探し歩いていくと、柴垣に囲まれたこぢんまりした平家《ひらや》の玄関に「園池」の表札を見つけた。垣根の袖に山茶花《さざんか》、日本水仙などの季節の花が咲き、狭い庭を精一杯利用して趣味の園芸を培っている。住人の人柄を偲《しの》ばせるようないかにも住み心地よさそうに住み古した家であり、手入れの行き届いた庭であった。  玄関に立ってチャイムを押すと、屋内に気配があって、細面の白髪の老婦人が顔を覗《のぞ》かせた。今日の訪問はあらかじめ電話で約束を取ってある。棟居が名前を告げると、老婦人はにっこりと笑って、 「主人がお待ち申し上げております」  とドアを大きく開いた。招じ入れられた応接間に園池はすでに待っていた。棟居の挨拶に立ち上がって応えた園池はスリムな長身であり、鞣革《なめしがわ》のような皮膚はよく日焼けしていて、いかにも健康そうである。三沢から聞いた年齢では七十を越えているはずであるが、ずっと若々しく見える。応接間の壁に有名なプロゴルファーの額入り色紙が飾られており、部屋の隅に道具一式を入れたゴルフバッグが二袋立てかけてある。老人の日焼けは�ゴルフ焼け�のようであるが、ここまで焼き込むには、かなりの年季がうかがえる。  玄関に出迎えた細君が茶に果物を添えて運んで来た。 「三沢君に会われたそうですな」園池は老妻の運んで来た茶を美味《うま》そうに一喫して懐旧の表情になった。 「先生によろしくと申されておりましたよ」 「あれから三十何年も経つのに律儀に年賀状をくれます」 「奥様の手料理の味がいまだに忘れられないとおっしゃってました」 「まだあんなことを憶えているのですか」  初対面の会話が一段落したところで、棟居は、楊君里から発した一連の捜査の経緯を話した。 「ほう、奥山さんが亡くなられたのですか」  園池が奥山の名前に少し反応した。 「そこでその死因について、馴鹿沢氏がなにか重大な鍵を握っている状況が浮かび上がり、彼の行方を探しているのです」 「奥山さんとは同じ教育部でしたが、あまりつき合いはありませんでした。しかしそんな気の毒な死にざまをされたとあっては昔、同じ釜《かま》の飯を食った仲間として放ってはおけない気持です。馴鹿沢氏とはたしかに官舎が隣り同士で親しく行き来しておりました。たがいにヘボ碁《ご》打ちで、休日がいっしょになったときなど、終日打ち合ったものです」 「馴鹿沢氏は岡本班の技手だったそうですが」 「確かめたわけじゃないが、病理班の所属にはまちがいありません」 「お隣り同士で確かめられなかったのですか」 「731の官舎では、どんなに親しくなっても、どこでどんな仕事に携わっているか聞くのは禁句になっていました。同じ官舎に住んでいても、たがいに隣りは何をする人ぞでしたよ」 「それなのに、どうして岡本班所属とわかったのですか」 「消毒のにおいが凄かったのです」  園池は、かたわらに控えていた老妻の方を見た。 「消毒のにおいとおっしゃいますと?」 「病院のにおいと言いましょうか、クレゾールのにおいが馴鹿沢さんの全身からぷんぷんしていたのです」  細君がひかえめに口をはさむと、園池がそれを補足するように、 「馴鹿沢さんの奥さんが、当時二十七、八歳の小柄な可愛い人でしたが、なんでも旦那の身体があんまり臭いので、夫婦の交わりを拒絶したとうちの女房にそっとこぼしたそうです」 「消毒のにおいだけで、岡本班とわかるのですか」 「それがね、夜中寝静まってから、隣家のドアが激しく叩かれて、岡本先生がご不在なので、隊長閣下がぜひ馴鹿沢技手殿に来て欲しいとのことですなどという呼出しが来るのです。こんなことがしょっちゅうなので、馴鹿沢氏は岡本班の技手なんだなとわかってきたのです。そう言えば、夏勤務が終ってから夕涼みがてら碁を打っていると、プーンと消毒のにおいが漂ってきたことがありました。この人は消毒液に朝から晩まで浸りきりの仕事をやっているんだなと推測したものです」 「奥さんが夫婦の交わりをいやがるほど臭いとなると深刻ですね」 「消毒のにおいは731の�隊臭�のようになっていましたが、馴鹿沢氏の場合特にひどかったようです。出勤して一度、退勤するときに一度、そして夜寝る前に一度と、一日に三回風呂へ入ったそうですよ」 「その馴鹿沢氏の消息をご存知ですか」  棟居は核心に入った。 「それが引揚げ列車までは一緒でしたが、船が別々になって帰国後はまったく音信不通になってしまいました」  あえかな手がかりの糸はここでプツリと切れた。 「出身地はわかりませんか」  失望に耐えて、棟居はすがりつくように聞いた。 「先祖が将軍家に鹿の角を上納したのが、苗字の由来だという話は聞いたことがありますが、郷里はどこか聞かなかったなあ」  それはすでに三沢からも聞いていた。 「雑談をしているときに土地の名前なんか出ませんでしたか」 「そう言えば若いころよく山へ登ったという話をしておりましたなあ」 「山? どんな山ですか」 「なんでも穂高とか、槍とか赤石岳《あかいしだけ》とか」  棟居は美ケ原温泉へ行ったとき、やはり山が好きだったという神谷の言葉をおもいだした。 「みんな信州の山のようですね」 「そうそう、時々ずらという言葉を使っていましたよ。そうずらとか、明日もいい天気ずらとかね」 「ずら言葉というと長野、山梨、静岡などで使われますね」 「馴鹿沢さんの奥さんは、東京ですわ」  園池の細君が、また口を添えた。二人が目を向けると、 「訛《なまり》がないきれいな標準語で、なんでも寺内元帥の遠縁の娘さんだったとかおっしゃってました」  寺内元帥と言えば、二・二六事件以後頭角を現わした寺内寿一のことであろうか。彼は日中戦争中に北支方面軍司令官をつとめている。 「奥さんではなく、ご主人の郷里についてお心当たりはございませんか」 「ご主人は知りません。ただおそばが好きだと奥さんがおっしゃってました」  細君の知っていることは、それだけであった。結局、技手の名前は「馴鹿沢英明」と判明した。  蕎麦《そば》の好きな馴鹿沢、穂高、槍、赤石岳、将軍家に鹿の角を献上、鹿の多い土地、ずら言葉、これらが、馴鹿沢の出身地を指す鍵として棟居の意識の中でリンクされた。      3  馴鹿沢はどこにいるか?——彼だけが残された唯一の手がかりであった。棟居は「ずら言葉」について調べてみた。辞典によると、推量の助動詞「ずらう」の変化したもので、「明日は雨ずら」、「寒いずら」、「言ったずら」などと使われる。神奈川県小田原、山梨県|南巨摩《みなみこま》郡、長野県全域、岐阜県|恵那《えな》郡、静岡県全域で使われている。また、石川県石川郡|白峰《しらみね》においては「おびいめえずら(驚くまいことか、大いに驚いた)」というように、打消しの助動詞「まい」をうけて反語を示すものとして使われている。  馴鹿沢は、「ずら」を推量の意を表わす言葉として使っていたから、石川県ではあるまい。山と蕎麦というキイワードを当ててみると小田原と静岡県もなんとなくそぐわない。もっとも都会にいて山と蕎麦の好きな人は多いから、このキイワードは役に立たない。  次に馴鹿沢という姓から出身地を割り出せないものか。将軍家に鹿の角を献上したのが苗字の由来だというから、鹿が出る地方にちがいない。この点から山国であることが推測される。また「沢」も山地である。鹿のいる沢となると、全国各地にあるであろう。東京近郊でも丹沢《たんざわ》山中にカモシカが生息している。  しかし馴鹿《トナカイ》がいたという話は、聞いたことがない。それはおおむね、東半球および西半球のツンドラ地帯また北部の森林地帯に棲《す》んでいる。体形は他の鹿類と著しく異なり、体高は一メートル以上、体重も六十—百八十キロ、中には三百キロに達するものもあるという巨躯《きよく》である。このことから「大鹿」を馴鹿と呼んだことが考えられる。  次に棟居は姓氏辞典を索《ひ》いてみた。鹿に因《ちな》んだ姓は多いが、馴鹿沢という姓はなかった。鹿川、鹿園、鹿田、鹿谷、鹿野などはあるが、「鹿沢」はない。  これが雄鹿、牡鹿、男鹿、小鹿となると、陸奥牡鹿《むつおしか》郡、駿河小鹿邑《するがおしかむら》(村)の地名に因んだ姓がある。また妻鹿《めが》は播磨国妻鹿邑《はりまのくにめがむら》、女鹿は陸中の豪族清和源氏小笠原氏の一族にある。  だがこれらの姓が馴鹿沢に関係があるとはおもえない。  馴鹿沢を探す手がかりが切れかけたとき、園池から電話がかかってきた。 「ああ棟居さんですか、馴鹿沢氏の居所の見当がつきましたよ」  いっさいの前置きを省いた園池の声は弾んでいた。 「えっ見当がつきましたか」 「あなたが来られてから長野方面の731の仲間の家に片っ端から電話をかけましてな、南信濃《みなみしなの》の奥の方に馴鹿沢という姓が固まっている集落があるそうです。その辺一帯がみんな馴鹿沢という姓を名乗っているそうです。正確な地名はまだ突き止めていませんが、まずあなたにお知らせしようとおもってお電話したんです」 「それだけわかれば、あとはこちらで調べます。大助かりですよ」  棟居はおもわず電話機に頭を下げていた。園池はあれから、古い記憶を掘り起こしながら、昔の仲間を次々に手繰っていったのであろう。電話料も決して安くないはずである。  早速地図を調べてみると、長野県の南端に「南信濃村」がある。南アルプス赤石山脈を県境として静岡県に接し周囲を山に囲まれている辺鄙《へんぴ》な地域である。地図を見ても大変な山奥であることがわかる。  地図の上を渉猟していた棟居の目が愕然《がくぜん》として、一点に固定した。南信濃村の北隣に、「大鹿《おおしか》村」という地名があるではないか。  園池が言ったのは、南信濃であり、南信濃村ではなかったのだろう。大鹿村も南信濃地方である。  棟居は直ちに大鹿村役場へ電話をかけて馴鹿沢英明の戸籍の有無を質ねた。戸籍があれば、現住所を手繰り出せる。 「馴鹿沢という姓は、本村の鹿塩《かしお》という地区に固まっております。しかし馴鹿沢英明という人の戸籍はありませんね」 「戸籍はありませんか」  せっかく手繰り寄せた手がかりがまた遠のきかける。 「でも馴鹿沢姓は、隣りの上《かみ》村や南信濃村の方にもありますよ。昔こちらから�分家�して行ったということですが」 「南信濃村にもある!」 「そちらの役場に問い合わせてください。もしかすると、あっちにあるかもしれない」  吏員の言葉に勇気づけられて、電話のダイヤルをつづける。そして遂に上村に馴鹿沢英明の本籍があり、現在南信濃村|木沢赤沢《きざわあかざわ》という所に住んでいることを突き止めたのである。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『新・人間の証明(上)』昭和60年9月10日初版発行